芽が出た。芽が出たのは座席の上だ。何の座席かというと、地下鉄の座席の上だった。始発の時間をまつ、うすぐらい車内。その長い長い座席の真ん中に、小さな小さな芽が出た。小さな小さな葉っぱが2まい、ついていた。
発車したときには、地下鉄の中にはほとんど人がいなかった。でも時間がたつにつれて人が多くなり、座席に座る人も増えた。地下鉄の中はどんどん人が増えた。座る場所がなくなって、立つ人も増えた。ラッシュアワーになって、地下鉄の中は満員になった。
「おや、ここがあいているじゃないか」。
男の人が言った。
「だめですよ、小さな芽が出ているじゃないですか」。
女の人が言った。
「なんだこんなもの」。
男の人は芽を抜こうとした。
「なにをするんですか、やめなさい」
と女の人が男の人の腕をつかんだ。
「ええい、抜かないでも座ってしまえばいいんだ」。
男の人は芽の上に自分のおしりをのせようとした。
「いけません!」
女の人は男の人をつきとばした。
「なにをするんだ!」
「あなたがいけないんです!」
ふたりはけんかになった。まわりの人たちが止めに入った。「どうしたんですか」。
「だってここに小さな芽が」。
「こんなものどうでもいいじゃないか」。
「かわいそうじゃないですか」。
まわりの人たちもふたつに分かれて言い合いになった。
「地下鉄は人でいっぱいなんだ。草の芽なんか抜いてしまえ」。
「こんな小さな芽を抜くなんてかわいそうだ」。
「仕事の前にゆっくり座らせろ」。
「先に座っていたのは草の芽ですよ」。
地下鉄全部で言い合いになった。地下鉄が駅にとまるたびに新しい人が入ってきて、そのたびに芽の場所に座ろうとする人と、それを止めようとする人とのあいだでけんかになった。でも人々は自分の仕事に行かなければいけなかったので、自分の駅に着くと降りていった。地下鉄の中は少しずつ人が減っていった。立っている人も減り、席も空き始め、最後の駅に着く頃には誰もいなくなった。地下鉄の中は小さな芽だけになった。でもこのころには、小さな芽はほんの少しだけ大きくなっていた。そして3枚目の葉っぱが出てきていた。
発車したときには、地下鉄の中にはほとんど人がいなかった。でも時間がたつにつれて人が多くなり、座席に座る人も増えた。地下鉄の中はどんどん人が増えた。座る場所がなくなって、立つ人も増えた。ラッシュアワーになって、地下鉄の中は満員になった。
「おや、ここがあいているじゃないか」。
男の人が言った。
「だめですよ、小さな芽が出ているじゃないですか」。
女の人が言った。
「なんだこんなもの」。
男の人は芽を抜こうとした。
「なにをするんですか、やめなさい」
と女の人が男の人の腕をつかんだ。
「ええい、抜かないでも座ってしまえばいいんだ」。
男の人は芽の上に自分のおしりをのせようとした。
「いけません!」
女の人は男の人をつきとばした。
「なにをするんだ!」
「あなたがいけないんです!」
ふたりはけんかになった。まわりの人たちが止めに入った。「どうしたんですか」。
「だってここに小さな芽が」。
「こんなものどうでもいいじゃないか」。
「かわいそうじゃないですか」。
まわりの人たちもふたつに分かれて言い合いになった。
「地下鉄は人でいっぱいなんだ。草の芽なんか抜いてしまえ」。
「こんな小さな芽を抜くなんてかわいそうだ」。
「仕事の前にゆっくり座らせろ」。
「先に座っていたのは草の芽ですよ」。
地下鉄全部で言い合いになった。地下鉄が駅にとまるたびに新しい人が入ってきて、そのたびに芽の場所に座ろうとする人と、それを止めようとする人とのあいだでけんかになった。でも人々は自分の仕事に行かなければいけなかったので、自分の駅に着くと降りていった。地下鉄の中は少しずつ人が減っていった。立っている人も減り、席も空き始め、最後の駅に着く頃には誰もいなくなった。地下鉄の中は小さな芽だけになった。でもこのころには、小さな芽はほんの少しだけ大きくなっていた。そして3枚目の葉っぱが出てきていた。
次の日の朝も、地下鉄は人がたくさん乗ってきた。そして昨日の朝と同じように、芽を抜いて座ろうとする人と、それを止めようとする人が言い合いになった。
「抜いてしまえ」。
「ダメだ」。
「どうしてこんな草に席をゆずらなければいけないんだ」。
「草だって生きているんだよ」。
そしてみんなでけんかになり、でも自分の駅に着いたら降りていった。芽は、またほんの少しだけ大きくなっていた。
その次の日も、地下鉄の人どうしでけんかになった。そしてみんな自分の駅で降りていった。また次の日も、その次の日も、毎日言い合いになった。芽は毎日、ほんの少しずつ大きくなっていった。
「近頃、地下鉄の中で、乗客どうしのもめ事が多いのだが、どうしてだろう」。
市議会で問題になった。
「それは地下鉄の中に、草の芽が生えているからだ」。黒い背広を着た男の人が言った。
「そんなもの、さっさと抜いてしまえばいい」。別の、黒い背広を着た男の人が言った。この人はさっきの人より太っていた。
「いやいや、抜くなんてとんでもない。はさみで切ったほうがいい」。この人も黒い背広を着ていた。すごく太っていた。
「はさみで切るだって?なんてバカなことを」。この人も黒い背広を着ていた。そしてすごくやせていた。「切るならナイフを使いなさい」。
黒い背広を着た市議会議員みんなで議論になった。
「ナイフよりノコギリで切るべきだ!」
「切ってはいけない、踏みつぶすべきだ」。
「毒薬をかけて溶かしてしまうのがいい」。
「そうじゃない、ちぎればいい!」
議論は一日かけても終わらなかった。仕方がないので次の日も議論をし、それでも結論がでなかったので、さらにその次の日も議論をし、それでもずっと結論が出ず、とうとう議論は一週間続いた。最後に、黒い背広を着た人たちの中で一番年をとっていて、一番長いひげをはやした人が言った。この人は市議会の議長だった。
「バーナーで焼いてしまえばいい」。
その日、乗客達はいつものように芽の場所をめぐって「抜くべきだ」「それはいけない」と言い合いをしていた。すでに座席の芽は10センチくらいの高さになり、葉っぱも5枚になっていた。地下鉄がある駅に止まりドアが開くと背中にガスのボンベを背負い、顔には熱をさえぎるために鉄製のマスクをした作業員が乗り込んできた。作業員は全部で10人で、みな右手に、長さ1mくらいの細長い筒を持っていた。先頭の作業員が、自分のベストについたボタンを押すとベルトのスピーカーから音声が出た。
「タダイマヨリ、サギョウヲカイシシマス。キケンナノデチュウイシテクダサイ」。
そして10人の作業員達はいっせいに右手に持った長い筒を、小さな草の芽に向けた。次の瞬間、ゴォーという音とともに真っ赤な炎がその先から吹き出した。火炎放射器だった。乗客はわっと飛び退いた。座席の上の芽に10の炎が迫る。まさに、草の葉に炎がふれようとしたその時だった。
ザー!
上から激しく水が降ってきた。
「雨だ!」
乗客の一人が叫ぶ。別の一人が言う。
「雨なものか、ここは地下だぞ!」。
「じゃあこれはなんだ?」。
「スプリンクラーだ!」。
「火炎放射器の熱に、火災報知器が反応したんだ!」。
まさに土砂降りのようにスプリンクラーから水が出ていた。火炎放射器はどれも水にぬれ、プス、プスと音を立てたかと思うとそれきり動かなくなり、炎は消えてしまった。作業員たちの服も水びたしになった。「ゼンイン、タイキャク!」。ベルトのスピーカーからそんな音声が出て、次の駅に地下鉄が着くやいなや、作業員たちは降りていなくなってしまった。
おこったのは乗客たちだ。みな服がずぶぬれになってしまい、会社や学校に行けなくなってしまった。「どうしたらいいんだろう?」。
「どうして私たちがこんな目に遭うのでしょう?」。
「だれがわるいんだろう?」。
「火炎放射器を持った作業員が悪い」。
「じゃあ彼らに文句を言おう」。
「ちがう、彼らをここによこした奴らに文句を言うべきだ」。
「それはだれだ?」。
「市議会員たちだ!」。
乗客たちは次にとまった駅で地下鉄を降り、濡れたまま市議会の議事堂に押し寄せた。そして落ちている板や棒を拾ってプラカードを作り、「クリーニング代をかえせ!」とか「火炎放射器反対!」「市議会はすぐにぬれた服をかわかせ!」といったことをペンキで書いて市議会の前で騒いだ。かれらはそのあと日が暮れるまで騒いでいたらしいが、そのあいだに地下鉄の中ではさらに大変なことが始まっていた。
すっかり水びたしになった車内。床がぬれている。窓もぬれている。ぶら下がったつり革からも、しずくがポチャ、ポチャ、としたたり落ちている。とうぜん座席もぬれている。10センチほどの芽はたっぷりと水をもらって、いきいきとしている。そしてグン、グンと大きくなる。葉っぱがどんどん出てくる。それだけではない。ほかの座席からも新しい芽が出てくる。はじめは小さな小さな緑色の葉っぱが1まい。やがて2枚。そして背がのび、葉がふえていく。そんな芽が地下鉄の中で1つではない。2つ、3つと芽を出し、見る間にその数は5つになり、10になり、気がつけば車内中に無数に生えていた。
「では緊急特別予算として、地下鉄のスプリンクラーで水びたしになった乗客たちのクリーニング代の支払いを可決します」。
黒い背広を着て、いちばん長いひげを生やした市議会議長はそう言ったあと、安心してほうっとため息をついた。何しろ地下鉄でぬれた市民たちのクリーニング代を支払うべきか支払わないべきかという、支払うとしたらその予算はいくらなのかといった議論が1週間続いて、その間ほとんど眠れなかったからだ。そしてなによりつらかったのは、火炎放射器を使ったのが自分のせいだと責められたことだ。
「たしかに私はバーナーで焼くのがいいと言いました。でも、火炎放射器なんて言っていませんよ」。
議長はそう言い訳をした。そうしないと、自分がクリーニング代を払わされることになるからだった。だからいっしょうけんめい、責任は自分ではなく作業員たちと、彼らに命令を下した市議会議員全員にあるという結論になるように、みなを説得した。そうして1週間かかってようやく責任者は議長ではなく市ぜんたいだから、クリーニング代も市のお金からだすという議決にこぎ着けたのだった。
議場を出て廊下を歩きながら、議長は窓の外で乗客たちがよろこんで万歳をしている声を聞いた。無事にクリーニング代が出ることになったからだった。議長はそれが聞こえないように耳を手で覆い、そして議長控え室に入った。ここに入ればもう万歳の声は聞こえなかった。議長はもう一度ほっとした。そして心の重荷がとれたので、自分の好きなものを飲んでお祝いをしようと思った。議長は秘書を呼んだ。
「お呼びでしょうか、議長どの」。
「わしはいまようやく安堵した。おいわいに、好きなものを飲みたい」。
「お酒ですか?」
「ちがう、わしの好きなものと言ったら、牛乳だ」。
「かしこまりました。すぐに牛乳をコップに1杯持ってきます」。
「そうしてくれたまえ」。
でも秘書はそこに立ったままだった。
「どうしたんだ、はやく牛乳を取りにいきたまえ」。
「はい。でもその前に1つご報告を」。
「なんだ」。
「地下鉄の中で、芽がいっぱい出ています。たくさん生えて、地下鉄の中は草の芽だらけです」。
そう言って、秘書は出て行った。議長はひとり、眉間にしわを寄せ、苦々しい気持ちで椅子に座っていた。さっきまでの安堵はすっかり消え去った。なにしろまた心配事がふえたからだ。1本だけだった草の芽がたくさんに増えている、1本でもたいへんなのに、いったいどうしたらよいのか?
議長が頭を抱えて座っていると、秘書が牛乳の入ったコップを持って入ってきた。
「牛乳です、議長どの」。
「ああ、もう牛乳を飲みたい気分ではなくなった」。
「ではお下げしますか、議長どの」。
「ああ、そうしてくれ…。いや、ちょっと待ってくれ」。
議長は何かを思いついたらしく、にやりと笑った。長いひげが少し上を向いたように見えた。
「やっぱりこの牛乳はおいていてくれ。飲みたい気分になった」。
秘書は牛乳の入ったコップを置いて、ドアから出て行った。議長は窓の外を見て、一人で笑っていた。仕事の問題も解決して、自分にもいいことがある。牛乳はなんて素晴らしい飲み物だろう。だから牛乳は大好きだ。
朝のラッシュアワーだというのに、その車両には乗客が入るすき間はなかった。座席の上にも、床の上にも草が生えていたからだ。手すりにもツルが絡まり、つり革にもあみだなにものびてぶら下がっていた。「まるで野原だ」。と誰かが言った。車内がいちめん緑色だったからだ。そしてその地下鉄には、草を踏みつぶさないかぎり誰も入ることができない。でも、もし入ったとしても座席は草だらけで座れないし、吊革にもつかまることができないので、すぐに出て行ったしまったことだろう。だから誰も中には入らなかった。
誰もいない車内に、アナウンスの声が響き渡る。「さきほど市議会において地下鉄放牧条例が可決されました。この条例に基づき、当地下鉄内では草の除去作業が行われます」。
ドアが開き、遠くから「モォーモォー」という鳴き声が聞こえてきた。やがて、1頭、2頭と姿を現したのは、白と黒のまだら模様のホルスタイン種のウシだった。3頭のウシが牛飼いのおじいさんに連れられて車両の中にやってきた。そしてさっそく草を食べ始めた。床の上の草をおいしそうにモグモグと口に入れ、座席の上の新芽に舌をのばした。さすがに網棚やつり革にからまったものまでは口が届かなかったが、お昼過ぎまでおいしそうに草を食べた。そしてそのあと3時までぐっすりと昼寝をして、また草を食べ、消化した草をフンにしておしりから出し、やがて牛飼いのおじいさんに連れられて自分たちの家まで帰っていった。
翌朝もまたウシたちはやってきた。でも草を食べる前に牛乳をしぼった。それから地下鉄に入って、昨日残した草を食べ、お昼寝をし、また草を食べ、おしりから消化したフンを出し、また牛舎に戻った。
「ほらほら、思った通りだ」と長いひげの議長が言った。
その翌朝もまたウシたちはやってきた。そして草を食べる前に牛乳をしぼった。それから地下鉄に入って、昨日残した草を食べ、お昼寝をし、また草を食べ、おしりから消化したフンを出し、また牛舎に戻った。
「どれどれ、新鮮な牛乳はおいしいことだろう」。そういって議長は絞りたての牛乳をコップに1杯入れて飲んだ。
「おいしい!素晴らしくおいしい。草は減るし、おいしい牛乳が飲めるし、こんなに素晴らしいことはない」。議長はそう言った。そして次にはこんなことを思った。「こんなおいしい牛乳を私だけが飲むなんてもったいない」。
その次の日もウシたちは地下鉄に出かけ、草を食べ、昼寝をし、また草を食べ、消化したものを出して牛舎に戻った。そして作業員が牛乳をしぼった。
次の日から、パックに詰められた牛乳が、コンビニエンスストアに並んだ。「ちかてつ牛乳」という名前で、マークは地下鉄の切符の絵だった。
「ちかてつ牛乳」はおいしいと言うことで評判になった。どんどん牛乳が売れ、おいしいという評判を聞いて別の街からも牛乳を買いに来る人がやってきた。議長もたくさん新鮮な牛乳を飲んだ。おいしかった。別の街から買いに来た人たちもくちぐちに「おいしい」と言った。しかし、いっこうに草はなくならなかった。だからその地下鉄にはいつまでたっても人が乗れなかった。だから議長のところには、抗議の手紙がたくさん送られてきた。
「あなたは本気で草をなくそうと思っているのですか?」。「はやく地下鉄に乗れるようにしてください」。
中には議長を疑っている人もいた。「本当は牛乳を作りたいから草を残しているのではないですか?」。「牛乳の売り上げは、議長のお金儲けになっているのではないですか?」。
議長は困った。だって本当に草を退治したいと思っていたからだ。たしかに牛乳は毎日コップに10杯は飲みたいくらいおいしかったが、議長としては草を退治するのが仕事だった。しかし、こんなにウシが食べているのに、どうして草は減らないんだろうか。ウシはちゃんと草を食べておらんのではないだろうか。もっとウシががんばって草を食べるように言わなければいかん。
翌日、またウシが地下鉄にやってきたとき、議長は牛飼いのおじいさんに言った。
「もっとたくさん草を食べさせなさい」。
「ウシたちはいっしょうけんめい食べておるよ」。
「じゃあどうしていつまでたっても草はなくならんのだ」。
「だって、食べるはしから新しい草がのびるからの」。
「何でのびるんだ」。
「何でって、こんなに肥料があればのびるわの」。
「肥料をやっているやつがいるのか?」
「ウシのフンは、草のいい肥料になるんじゃよ。どんな肥料よりもウシのフンが一番じゃ」。
議長は言葉を失った。草を減らすためのウシが、草をのばす肥料を作っていたなんて。「おじいさん、これからはフンをしないようにウシに言ってくれ!」。
「わしはウシを飼って50年になるが、そんなことができたためしはないのう」。
議長はかおを真っ赤にしてウシに言った。
「ここでフンをするな!」
「モォー」。ウシは議長の言うことなどに耳を貸さない。
「フンをするんじゃない!」
「モォー」。
そして草は育っていくばかり。ついには車両の外まで拡がっていった。線路の上、ホームにも草が生えた。
3日後、地下鉄放牧条例は廃止になった。そのころにはホームの上は草原のように草が拡がっていた。
市議会ではまた議論になった。
「あんな草は燃やしてしまえ!」。黒い背広を着た男の人が言った。
「燃やそうとしたらスプリンクラーから水が出て、こうなったんじゃないか!」。別の、黒い背広を着た人が言った。
「だから最初に全部ハサミで切ってしまえばよかったんだ!」とまた別の背広の人が言った。「最初から私の言ったとおりにしておけばよかったんだ。だから私のせいではない」。
「誰のせいだという話をしているんじゃない。そもそも私が言ったように、カッターで切ればよかったんだ。だから私の責任ではない」。
「誰に責任があるとか、そんなことはどうでもいい。大事なのは最初に全部抜いてしまわなかったことだ!」。
「いやそうじゃない、私が言ったように毒薬で枯らしてしまえばよかったんだ!」
「いやいや、草刈り機で刈ればよかったんだ!」
「そんなこと言わなかったじゃないか!」
「私に意見を求められなかったから言わなかっただけだ!」
「ちがう、バリカンで刈ればよかったんだ!」
「バリカンはだめだ、踏みつぶせばよかったんだ」。
1日目の議論は、ああすればよかった、こうしたらよかった、という話ばかりで終わった。議長はみんなの言うのを聞きながら、ただ下を向いているばかりだった。自慢の長いひげもたれたままだった。
2日目は「ちかてつ牛乳」について議論をした。ちかてつ牛乳はとてもおいしかった、あのような牛乳は飲んだことがない、市民から評判がよかったと言うことを背広を着たみなが口々に話をした。そして「あのような牛乳ができたのは、我々市議会議員がウシを出動させるというすばらしい決定をしたおかげだ」という結論でみんながもりあがった。おかげでその日はみんなきげんよく家に帰った。
でも3日目は市民からの苦情で始まった。「車両にも駅にも草がいっぱいで、地下鉄に乗れない。仕事に行けないのではやく何とかして欲しい」。
「学校に行けなくて困っています。来週テストがあるのですが、行けないと零点になります」。
そこで議員たちは意見を出し合った。「草があるせいで、市民生活に支障が出ている。何とかしなければ」。
「そうだ!」
「でもどうやって?」
みんな黙り込んでしまった。そしてその日はそれっきり、無言のまま終わってしまった。
4日目は何とかして草をなくそう、と誰もが考えた。
「ハサミで切ろう」。
「もう手遅れだ」。
「カッターで切ろう」。
「それも手遅れだ」。
「ノコギリで」。
「同じことだ」。
「ふみつぶそう」。
「多すぎる」。
「毒薬をかけよう」。
「無理だ」。
「ちぎろう」。
「だれが?」。
「燃やそう」。
「前に失敗した」。
黒い背広を着た誰かが何かを言うと、別の黒い背広を着た誰かが否定して、その日は終わった。
5日目の朝、黒い背広の誰かが「気分を変えて、地下鉄の様子を見に行こう」、と言い出した。別の誰かが言った。「そうだ、そうしよう。これは重要な『しさつ』だ!」。しさつという言葉がかっこよかったので、ほかのみんなも「それがいい。そうしよう。しさつだ」と言った。そして誰かが「しさつだんを結成しよう」と言った。しさつだんという言葉もかっこよかったので、みんな「それがいい」と言った。そして市会議員全員でしさつだんを結成した。
6日目に議員たちはしさつだんとして、地下鉄に向かった。階段を下りると、ホームの上は草だらけで、駅の名前も、時刻表も、柱も草で覆われていた。どの草も1メートル以上はあった。もちろん地下鉄の中も草でいっぱいだった。車両のはしに、運転手さんが立っていた。しさつだんの議員たちは草をかき分けて駅におり、運転手さんに言った。「なにをしとるんだね?」
「地下鉄を動かせないから、何もしていません」
と運転手さんは言った。
「ああ、それはいかんな。なんとかしたまえ」
と別の議員が言った。
「わかりました。ではそのまえにこの草を何とかしてください」
と運転手さんは言った。
「責任をてんかするなんて、君のたいどはなっとらんな」
とまた別の議員が言った。
そうだそうだ、とほかの議員たちは言った。そして地下鉄が動かないのは自分たちのせいじゃないことに満足して、その日は家に帰った。
7日目。
「地下鉄が動かないのは、運転手のたいまんのせいだったな」。
「そのとおりだ」。
「だからわれわれはこれ以上、議論をしなくてもいいんだ」。
「そうさ。なにしろ悪いのは運転手だ」。
「まったくだ。『この草を何とかしてください』なんて、責任逃れもいいところだ」。
「それにしてもあの草はすごかったな」。
「わしの首くらいまであった」。
「それが駅の中いっぱいにひろがっておった」。
「まるで野原みたいだった」。
「野原?そんなもんじゃない。あれはまさしく草原だ!」。
「草原だって?あれは草原なんて生やさしいもんじゃない」。
「じゃあなんだ!」
「サバンナだ」。
「サバンナって何だ?」。
「アフリカにある大草原のこともしらないのか?ライオンやシマウマがいるところだ。それだけじゃない、ゾウやチーターもいるぞ」。
それまでずっと下を向いていた議長の長いひげが、ピクリと動いた。この7日間ではじめてだった。
特別予算として、市営動物園の改装費用が圧倒的多数で可決された。動物園はもっと広くて住みよい建物に建て替えられる。これまで大きな動物をたくさん飼っていた動物園の飼育員さんたちは、動物たちがのびのび過ごせて心地よい小屋ができると喜んだ。もちろん動物たちも喜んだ。しかも、その改修は今すぐ行われるという。ただ、1つだけ飼育員さんと動物たちのぎもんがあった。動物小屋の改修工事をしているあいだ、動物たちはいったいどこでくらせばいいのだろうか?
「動物たちは、一時的に、別の場所に収容します」。
市議会から派遣された職員が、飼育員さんと動物たちに言った。
「どんな場所ですか?」。飼育員さんたちは聞いた。
「草がいっぱいの場所です」。
「どれくらい、いっぱいですか?」
「まるで動物たちのふるさとのようにいっぱいです」。
「まるでサバンナのように?」
「そう、そのとおり。まさにサバンナ」。
飼育員さんたちと動物たちは安心した。
「ではみなさん出発しましょう」。市議会の人が言った。
ふだんなら動物園に来る人たちが出たり入ったりするゲートから、動物たちがのっしのっしとあらわれた。最初はライオン、続いてシマウマ、そしてキリン、サイ、ゾウ、チーター、カバ、ダチョウ…。みんなお行儀よく、列をくんで歩いた。坂道をくだり、橋をわたり、車がきたら止まり、踏切をわたり、商店街のアーケードをくぐり、高いビルのたちならぶオフィス街を抜けて、そして地下鉄の入口から階段を下りていった。
動物たちは喜んだ。地下鉄の駅は見渡すかぎり草でいっぱいで、とても気持ちよく暮らせそうだったからだ。
「おっほん」。
市議会議長が、長いひげをピンとのばしてあらわれた。そしてとてもうれしそうにこういった。
「動物のみなさん、新しい動物園ができるまではここでゆっくりとすごしてください。ゾウさんやキリンさんなど、草を食べるのが大好きなかたがたはぜひともここにある草を思うぞんぶん、たべてください。ライオンさんやチーターさんなど草を食べない方々は、思うぞんぶん草の上でねころがって、草をつぶしてください」。
動物たちは喜んだ。シマウマやカバ、サイといった背の低い動物たちはホームの上に生えている草を食べ、キリンやゾウといった背の高い動物は柱や時刻表といった高い場所に絡んでのびている草を食べた。どちらも、食べても食べても食べきれないくらいあるので、とてもうれしそうだった。そしてライオンやチーター、ハイエナといった草を食べない動物たちは、思い思いにねころんだ。横になったりまるくなったり、あおむけになったりして、地面の草をクッションがわりにしてつぶした。駅は広かったので、いくらでもねころがる場所があった。そしてどの動物たちも、夜は地下鉄の車両にはいり、それを小屋がわりにしてねむった。
それから毎日、動物たちはたくさんの草を食べ、ねころび、夜はぐっすりとねむった。地下鉄は動物たちにとって、とてもくつろげる場所だった。だから毎日ニコニコとすごした。ニコニコしている動物を見るのは、人間にとっても楽しいことだった。仕事でこまったことがあったり、学校の勉強がわからなくなったときに、人々は地下鉄にやってきて動物を見るようになった。そして動物のニコニコしている顔を見て自分もニコニコした気分になって帰っていった。
さみしい気持ち、つらい気持ちになっている人たちの多くが動物を見にやってきた。なかにははるばるほかの県からやってくる人もいた。その人もニコニコした気分になって帰り、自分の家族や仕事なかまや学校の友だちなどにそのことを話した。そしてさらに多くの人がやってきた。ラジオ局やテレビ局も取材に訪れた。その放送を見た人が実際に自分の目で見ようとやってきた。1か月もしないうちに、この臨時動物収容所は「ちかてつどうぶつえん」として日本全国で有名になった。
市議会議長も、長いひげをゆらしながらニコニコと笑っていた。改装中の新しい動物園ができあがるまで、まだあと2か月くらいかかるが、すでに地下鉄にあった草の半分くらいが、動物たちにたべられたりふみつぶされたりしてなくなっていたからだ。のこっている草も、ずいぶん弱々しい姿になっていた。
「われながらすばらしい思いつきだった」と議長はわらった。「まさにアフリカのサバンナ、弱肉強食の世界。草は動物に食べられる運命なのだ」。この調子でいくとあと1か月ほどですべての草がなくなるはずだった。その日のことを想像するだけで、議長はうれしくなる。おおきななやみごとが消えてなくなるのだから。そのときには世界で一番おいしいと言われているロマネ・コンティの牛乳でかんぱいしよう、と思った。と、とつぜんドアをノックする音が聞こえた。
「入りたまえ」。
秘書が紙を1枚手に持って入ってきた。「議長どの、報告です」。
「思ったよりはやく草がなくなるという予想かな?」
「いえ、ちがいます」。
「なんだ」。
「動物たちの元気がなくなっております」。
「え?」
「ごはんを食べる元気もなく、ただぼんやりとしております」。
「どうしてだ?」
「わかりません」。
「すぐに学者を呼んで調べさせろ!」
大学のえらい動物学者が地下鉄にはけんされた。動物学者はふつうのものより3倍くらい大きな大きな聴診器を持って駅におり、それをライオンやゾウ、キリン、カバ、チーターといった動物たちのおなかや背中に当てて診察をした。そして一日中かかってぜんぶの動物の診察を終え、議長に報告した。
「げんいんは簡単です」。
「なんだ。動物たちが草を食べてくれないとこまるんだ。はやくなおしてくれ」。
「ニッショウブソクです」。
「そんな病気は聞いたことがない」。
「日照が不足しているんです。ほんとうだと動物たちはアフリカのさんさんとした太陽の光を浴びて生きているのです。でも地下鉄の駅は青白い蛍光灯の光があるだけ。これでは動物たちにとっては暗すぎます」。
「でも地下鉄なんだからしょうがないじゃないか」。
「地下鉄以外の場所に移動してあげれば、元気になります」。
「だめだ!地下鉄にいてもらって、草を食べてもらわないと意味がないんだ!」
「そうはいっても、このままではどんどん元気がなくなって、草もまったく食べないでしょう」。
「うーん、どうしたらいいんだ?」
「地下鉄に太陽くらい明るい照明をつけてあげたらどうでしょうか」。
「なんだ、それでいいのか!今すぐ地下鉄の駅を明るくしよう!」。
すぐに工事が行われ、地下鉄の中にはまぶしい照明器具がいくつもつけられた。まるでアフリカの太陽のような光を浴びて、動物たちはすぐに元気をとりもどした。ゾウは高く鼻を上げ、キリンは首をのばし、ライオンはたてがみを広げ、チーターは時速100キロで走った。
「動物たちが元気になりました」。動物学者は議長に言った。
「それならよし。これで問題はない」。議長は言った。「まったく心配したよ。これからも動物たちの健康には気をつけてくれ」。
「わかりました」。動物学者は言った。
「では行ってよろしい」。議長は言った。
動物学者は、議長の部屋を出るときに言った。「おかげで、植物も元気になりました」。ドアが閉まった。
すばらしい光を浴びて、草も元気をとりもどした。植物は光があれば光合成をして、自分で栄養をつくることができる。だから元気になる。かなり動物たちに食べられたりふんづけられたりはしたものの、明るい光をさんさんと浴びて、今ではどの草もシャンと茎が上を向き、葉をモクモクと茂らせ、どんどんひろがっていった。ゾウやキリンやサイがいくら食べても追いつかないほどひろがっていき、すぐにもとのとおり地下鉄の駅と車両をすべてうめつくすほどになった。もちろん、それだけではとまらない。駅のホームのはしまでいって場所のなくなった草は、階段とエスカレーターにひろがった。時刻表や柱にからんでいた草も、つぎにはパイプや電線にまきついて、さらにエレベーターをつるすワイヤーにのびていった。
「なんとかならんのか!」議長は動物学者にさけんだ。
「私にはどうすることもできません」。動物学者は言った。
「だって、君が明るい照明を入れろと言ったんだぞ!」
「それはあなたが、動物を元気にする方法を考えろと言ったからです」。
「わしのせいか?」
「そうです」。
議長は頭をかかえて言った。「何とかする方法はないのか?」
「私にはわかりません」。動物学者は言った。
「じゃあ誰ならわかる?」
「植物学者ならわかるかもしれません」。
「じゃあ、しりあいの植物学者をすぐにここへ呼んでくれ」。
植物学者が呼ばれた。議長がさけぶ。「草が駅から階段にひろがっている。何とかしてくれ」。
「それは、何科の何属の何という品種ですか?その学名はなんですか?」
「しらん!」
「では対処のしようがありません」。
「君は植物のことは何でも知っているんだろ!」
「私はキンポウゲ科イチリンソウ属ニリンソウのことは何でも知っていますが、それ以外のことは何も知りません」。
「では、だれなら何でも知っているんだ?」
「植物学者は自分の専門ことは何でも知っていますが、それ以外は何も知りません」。
「じゃあ、植物学者を100にん、ここに呼べ!」
100人の植物学者が議長室に集められた。もちろん、全員は入らないので多くの植物学者は寒い廊下にあふれるほどだった。議長はさけぶ。
「草がエレベーターのワイヤーをつたって、外に出ようとしている!どうやって止めればいいんだ?」。
植物学者たちはたがいの顔を見る。誰も何も答えない。再び議長がさけぶ。
「階段にひろがった草は、もう改札を出ようとしている。何とか止める方法はないか?」
植物学者の中で一番年をとった人が言う。「議長、それが何という植物かわかれば、この中の誰かが言うでしょう。でも、専門じゃない植物のことはわかりません」。
「じゃあ、君たちが実際に見に行って、何の植物か調べてくれ!」
「自分の専門以外の植物のことを調べるわけにはいきません」。
「なんでだ?」
「専門以外のことはわからないからです」。
その時、秘書が入ってきて議長に報告する。
「議長、草は改札を出てひろがっています。今はさらにそこから地上に出る階段にひろがっています」。
「非常じたいだ!」議長はかおを真っ赤にしてさけぶ。「だれか、このきんきゅう事態を何とかしようという人間はおらんのか!」。
植物学者たちはたがいの顔をみあわせた。誰も何も言わなかった。
「じゃあ、もういい!君たち植物学者にはたのまない!でもせめて、植物学者以外に、誰にたのんだらよいのか、教えてくれ!君たちのように専門的すぎず、何でも知っている学者はいないのか?」
「それは博物学者がよいと思います」。一番年をとった植物学者が言った。
植物学者はみな自分の研究室に帰され、かわりに博物学者が議長室に呼ばれた。議長は博物学者に言った。「このきんきゅう事態をなんとかしてくれ!」
「私にわかるのは、自然を分類することだけです」。博物学者は言った。
「じゃあ非常事態を何とかする学者は誰だ?」
「地下鉄のことなら、交通工学の学者かと思います」。
博物学者の代わりに、交通工学の学者が呼ばれた。
「君なら何とかしてくれるだろう」。議長は言った。
「私にわかるのは車や地下鉄の運行のことだけなので、都市工学の専門家がよいと思います」。と交通工学の学者は言った。そこで都市工学の専門家が呼ばれた。
「地下鉄の階段を何とかしてくれ」。議長は言った。都市工学の専門家が言う。
「階段なら私より人間工学の学者がよいと思います」。そこで人間工学の学者が呼ばれる。議長が言う。
「もう動物たちでは間に合わないんだ」。
人間工学の学者が言う。「それなら動物学者に」。
議長はさけぶ。
「最初に動物学者に聞いたんだ!問題をたらい回しにするな、そんなことは我々お役所のすることだ!」
そして草は階段やエレベーターから外に出て、地上にひろがった。
地上には初夏の太陽の光がさんさんとふりそそいでいた。地下鉄の照明がどれだけ明るいとは言っても、ほんものの太陽には負ける。草はたっぷりとほんものの太陽の光を浴び、どんどん大きくなった。もちろん晴れた日ばかりではないが、雨がふれば地面はうるおい、草はまたのびた。風が南にふけば南へ、東にそよげば東へ、草はひろがった。草は、今までなかったくらいのびのびと育ち、ひろがっていった。
はじめに街の大通りが草だらけになった。タクシーの運転手さんたちは「大通りをさけて走らなきゃならねえ」とグチをこぼしあった。どうしても大通りを通らなければ行けないときには、その前で車を止めて、歩いてお客さんを案内した。今まで車の中にしかいなかった運転手さんたちは、たくさん歩くことになったのでみんな健康になった。
つぎにオフィス街のビルの壁が草におおわれた。どのビルも同じ緑色の壁になったので、自分の会社をまちがえる人が続出した。まちがえて入った会社で、気づかずにそのまま仕事をしてしまう人もいた。すると新しい知り合いができたり新しいアイデアがわいたりして、みんな残業なしで仕事が終わるようになった。そして家に帰ってのんびりとした時間をすごせるようになった。
さらに信号に草がからまった。のびた草は赤と黄色の信号をおおいかくしたので、ぜんぶ緑色になった。青信号ばかりになって交通事故がふえるかと人々は心配したが、かえって運転に注意するようになって前よりも事故がへった。
駐車場にも草はひろがった。そしてアスファルトの上をうめつくして草むらになった。そこにバッタやコオロギ、チョウやトンボなどの昆虫がたくさん住み、こどもたちが虫取りをしてあそんだ。日がくれるまで草むらであそんだこどもたちは、おなかをすかせて家に帰り、晩ごはんをおなかいっぱい食べた。
電柱に草がからまった。からまった草は電線や電話線をつたってのびた。のびすぎて、ときには道路をへだてた電話線の草と草とがからまってしまうことがあった。そうすると電話が混線して、まったく関係ない人が電話に出ることがあった。知らない男の人と女の人どうしが会話をして、それがきっかけでデートをして結婚するカップルもあった。
学校にも草はひろがった。まず運動場が草むらになったので体育はできなくなり、つづいて教室の黒板がおおわれたので授業は黒板を使わない音楽と図工だけになり、そして机も椅子も草だらけになったので、最後には屋上が教室になった。そして屋上でみんなであおむけにねころがり、青空の広さと深さを味わった。
市のなかでいちばん高い建物はテレビ塔だ。そのテレビ塔にも、草はひろがった。鉄骨にからまり、階段をよじ登り、1日ごとにおよそ10mのびた。そして20日で展望台の窓ガラスをすべておおい、30日足らずでてっぺんまで到達した。そしてさらにテレビ塔のてっぺんからも草が生えた。その高さは30mをこえた。だからテレビ塔から発信される電波は草を通じて、今までよりはるか遠くまで飛ぶようになった。市内だけでなく、全国全世界のテレビに電波が届いた。市内のすべての地面や建物が草におおわれている様子を、全世界の人々が見られるようになった。
「議長、新聞記者が参ります」。秘書が言った。
市議会議長はまどの外から街のようすをながめていた。道路も建物も、どこもかしこも草でおおわれていた。そして草のおかげで人々が楽しくすごすのを見て、にがにがしい気持ちになっていた。そして何よりもはらだたしいのは、この市役所のビルにも草がからまり、地上10階にある議長の部屋のまどにまで草がしげっていることだった。これまで、草をなくそうとした議長のこころみは、バーナーもウシも動物園もみんな失敗していた。このまどから見えるひらひらとそよぐ草の葉は、そんな議長をあざ笑っているかのように思えた。「おそらく、今からやってくるテレビ局の新聞記者も、この草を見て私のことをわらうのだろう」。議長はひとりごとを言った。負けた。私は草に負けたのだ。
コンコン、とノックの音が聞こえて、20才くらいの女性の新聞記者がやってきた。「こんにちはー。こちらが市議会でいちばんえらい、議長さんでーす」。入ってくるなり、新聞記者の女の人が言った。「こんにちはー」。女性が議長に近づいて言った。思わず議長も言った。
「こんにちはー」。
「議長さんですかー?」
「はい、そうでーす」。
「議長さんが、街にこのみどりを増やしたのは本当ですかー?」
「何を言っておるんだ、私がやったのではない!むしろ私はそうならないようにー」。
「あらまあ、ごけんそんを!地下鉄の草に水を与えたり、牛のフンの肥料をあげたり、いっぱい育つようにたくさん照明をつけたりしたのは、議長さんですよねー?」。
「え?」
「さすがー」。
「は?」
「すばらしい決断ばかりでしたねー」。
「あ、いや、それほどでも」。
「最初はどんなお気持ちでしたか?」
「最初?そりゃ、こんな草なんて、はやく消し去りたいと思っていました」。
「つまりきらいだったと?」
「もちろん。今でもー」。
「今では、逆に好きになったと」。
「好きに?そんなー」
「そんなに好きですか?」
「あ?そんな、まあ」。
「まあまあ好きということですね? きっと議長さんのところにも、市民からお手紙がたくさん来ているのではないですか?」
「手紙ならいっぱいきていますよ。よくもこんなことをやってくれたなとか、これからはかんちがいするなとか」。」
「よくやってくれたとか、これからもがんばってくれとか」。
「そうそう、いやそうじゃない」。
「そんなにいやじゃない」。
「そうです」
「草がふえるのはそんなにいやじゃない、という意味ですよね?」。
「え?」
「ごけんそんを。だって、こんなにたくさん草がふえたのは、議長のごはんだんがあったからでしょう」。
「ごはんより牛乳が好きです。つまりー」。
「つぼみー」。
「え?」
「ほら、つぼみがまどの外に」。
議長はまどを見た。葉と葉のあいだに、まるくふくらんだ緑色のまるいものがある。まるいものの表面は、ほんのりと赤い色をしていた。
「これ、つぼみ?」と議長はきいた。新聞記者はまどの外を指して言った。「ほら、ここに赤いつぼみ、こちらは青いつぼみ、こっちは黄色いつぼみが」。
見ると、たしかにいろんな色のつぼみがあった。議長は急に顔が熱くなるのを感じた。
新聞記者が言った。「きっともうすぐ咲きますよ」。
「え?今あなた、なんとおっしゃいましたか?」
「もうすぐ咲きますよ、と」。
「いかーん!市議会を開催する!今すぐ議員たちを集めろ!対策を考えねば!」。議長はさけんだ。今すぐ対策が必要だった。でも、何をするための対策なのかは自分でもわからなかった。
議員の一人がさけぶ。
「断固として反対する!」。
「草が花を咲かせることに、反対する!」。黒い背広の太った男がさけぶ。
「そうだ反対する!」。もっと太った背広の男がさけぶ。黒いシルクハットをかぶった男もさけぶ。「断固反対する!」。
黒い背広を着てやせた男もさけんだ。「許可なく花が咲くことは許されない!」。「そうだ」「そうだ」。
みんなに賛成されて、その男がさらに大声を上げて言う。「許可なく花が咲くことは、この市では許されない!なぜならば!」「なぜならば!」
「なぜならば…」。男はだまってしまった。まわりの議員たちは、彼が次に何を言うのか待った。そして10秒ほど考えたのち、男はこうさけんだ。「理由なんかどうでもいいのである!われわれ市議会の許可なく何かするのはだめなのである!」「そうだ」「そうだ!」「許可がないのはだめだ!」。
黒いクツをはいて黒い背広を着た議員もさけぶ。「ましてや、赤や青や黄色など、勝手な色で咲くなどもってのほか!」。
「許可なく花が咲くのを禁止する条例をつくろう!」。
「それがいい!」。
「花が咲く場合には市議会の許可が必要だということにしよう!」
「もし許可なく咲いた場合にはー」。
「咲いた場合には?」
「罰金だ!」
「それがいい!…でも、どうやってお金を取る?」
「それは、その草から…」
「草はお金なんか持っていないし、だいたい、お金がなくても花は咲くぞ」。
「では、許可なく咲いた場合には、手錠をはめよう!」
「草の手はどこにあるんだ?」
「どこでもいい、枝でも葉でも手錠をつければいいんだ」。
「でも、もし枝に手錠をつけても、花は咲くだろう」。
「じゃあ、許可なく咲いた場合は、自宅軟禁だ!」
「それは何だ?」
「家から出てはいけないと言うことだ」。
「草には家もないし、そもそも足がないからどこにも行かないぞ。そしてそこで花も咲くだろう」。
「じゃあ、許可なく咲いたら、強制労働だ!」
「それは何だ?」
「むりやり働かせるんだ」。
「道路建設とか、工場で機械を組み立てるとか?」
「それは草にはできないから、たとえば、まちをきれいにするとか」。
「花が咲けばきれいになるだろう」。
「それじゃあ花がいっぱい咲いた方がいいということじゃないか!」
「じゃあ…」。
「じゃあ?」
「ええっと」
「ええっと?」
「うーん。わからない」。
議会にいるぜんぶの議員はだまってしまった。議長もどうしていいのかわからなかった。長いひげは下がりっぱなしだった。
「議長!」。
黒いめがねをかけて黒い背広を着た議員が言った。「どうしたらいいでしょうか?」
「わしにきかれても…」。議長はちからなくつぶやいた。とその時、議長の秘書が議会に入ってきた。秘書は議長のそばにやってきて、ひそひそと耳打ちをして、すぐに去っていった。ほかの議員がきいた。
「なにかあったんですか、議長」。
「いや…」。
「もしかして、もう花が咲いたとか?」。
「ちがう…」。
「では?」
「市民たちが、みな仕事や勉強をしなくなっているらしい」。
「どうしてですか?」
「会社の中ではたらいていた人も、工場ではたらいていた人も、学校で授業を受けていたこどもたちも、みんな外で出ているらしい」。
「どうしてですか?」。
「まちじゅうをおおっている草に、花がいっせいに咲くところを見たいらしい」。
議員たちはいっそうしずかになった。みな、下を向いた。しかし議長だけはなにかを思いついたらしく、ひげが少しだけ上を向いていた。
「どうぞいくらでも切って、お持ち帰り下さい」。スピーカーで市の職員たちがさけんでいた。「つぼみのついている枝を切って花びんにさしてみてください。何日かしたら、きっと花が見られますよ」。
市民たちはこぞって枝を切った。そしてあいているペットボトルや缶を見つけて水を入れ、それに枝をさして持ってかえった。市の職員たちはさけぶ。「じぶんのおうちの分だけじゃなく、おつとめさきの会社や学校にも、持ってかえってください」。
「ちょっとおききしますけど」。とあるお金持ちのおばさんが、スピーカーでさけんでいる職員にきいた。「わたし、これで花束をつくりたいんですけど、100本くらい切ってもいいかしら?」
「どうぞどうぞ」。
別の若い女の人も職員にきいた。「友だちが結婚するんです。これでブーケをつくりたいんですけど、30本くらい切ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」。
若い男性の会社員もきいた。「彼女が誕生日なのでプレゼントしたいんだけど、50本くらい切ってもいい?」
「どうぞどうぞ」。
作業服を着たおじさんもきいた。「同僚が昇進するんだ。20本くらい、切ってもいいか?」
「どうぞどうぞ」。
つえをついたおじいさんもきいた。「ばあさんとの金婚式なんじゃ。50本きってもいいじゃろうか?」
「どうぞどうぞ」
子供もきいた。「ぼく、何にもないけど誰かにあげたいから、いっぱい切ってもいい?」
「どうぞどうぞ」。
ほかの人たちも口々にきく。「私も誰かにあげたいから、切ってもいいですか?」「おれも誰かにあげたいから切ってもいいか?」「あたしも誰かにあげたい」。「ぼくも誰かにあげたい」。「わたしも」。「わたしも」。
そしてみんな枝を切った。公園に生えているものや、信号にからまっているもの、道ばたにあるものはもちろん、それに会社のまどから身を乗り出して、ビルをおおっている枝を切る人もあった。そしてみんなそれを持ってかえるのにペットボトルや缶が必要だったで、ポイ捨てするひとがいなくなった。まちの中はずいぶんきれいになった。そして家や会社、学校では、みんな誰かにつぼみのついた枝をあげたり、もらったりして機嫌がよくなった。
もちろん、議長も機嫌がよかった。しかし彼の場合は、誰かに枝をもらったから機嫌がよいのではなかった。
「ふふふ。ずいぶんつぼみがなくなったぞ。この調子だ」。
議長はわらった。議長の部屋にも、切ったつぼみを花びんにさしてかざっている。それは、何日か前にまどから身を乗り出して、彼自身が切った枝だった。ほかにもたくさんまどの外の枝を切った。おかげでまどの外は以前のように見晴らしがよくなった。…はずだった。議長は、数日前に枝を切ったときより枝がふえているような気がした。
「まさか、そんなはずはない」。
議長は秘書を呼んだ。
「おい、まどを見たまえ」。
「はい、なんでしょうか」。
「何日かまえに、このまどの枝を切ったよな?」
「4日まえ、議長ご自身が、まどわくの形にきれいに四角く切りました」。
「そうだな。それにしてはおかしくないか?」
「は。きれいな四角ではなくなってますな」。
「やはり、そう見えるか」。
「はい。四角形の辺がギザギザでガタガタのきたない線になっております」。
「どうしてそうなったんだろうか」。
「議長、細い枝がいっぱいのびているからです」。
「え?」
「議長がお切りになった切り口の下から、それぞれ2本3本と、小枝がのびているのです」。
「それではまた枝がふえてしまうではないか?」
「はい。この調子では、あとまた数日でまどがおおわれてしまいそうですね」。
「それはいかん!」
また植物学者が100人、議長室に集められた。議長はまどの外を指さしながら、植物学者たちにきいた。
「何でだ?切ったはずなのに、なぜまたのびるんだ?」
植物学者たちはたがいの顔をみあわせた。誰も何も言わなかった。議長はどなった。
「この草が何科のなんという名前なのかくらい、みればわかるだろう?そしたらこの中に1人くらいは、その専門家がおるだろう!さあ、教えてくれ!」
植物学者たちはふたたびたがいの顔をみあわせた。議長は再びどなった。
「だれか1人、答えたまえ!」
しばらくの沈黙ののち、いちばん年をとった植物学者が言った。
「だれがお答えすべきか、相談しますので少々お時間を下さい」。
植物学者たちはぜんいん、会議室に入った。議長は1時間待ったが植物学者たちは会議室から出てこなかった。3時間待ったが、それでも出てこなかった。半日たち、植物学者たちは出てきたが、もう夜になったので帰ることにしたからだった。結論はあす出すからと議長に言ったので、議長は待つことにした。次の日、一日中植物学者たちは会議室にこもって相談を続けた。でもその日も結論は出なかった。夜になって帰り、また次の日にやってきて、会議室にこもって相談をした。議長が「もう待てない」と怒り出す直前、夕日が落ちるころに植物学者たちは会議室から出てきた。
「ずいぶん待ったぞ」。議長は言った。「3日間もかかったからには、そうとうむずかしいことなんだろう?」
「いえ、とてもかんたんです」。いちばん年をとった植物学者が答えた。「植物というのはなんでも、枝を切ったら、切り口の下で枝分かれをするものなのです」。
「それってどういうことだ?」
「人が転んでけがをしたらかさぶたができてキズがなおるように、植物というのは枝を切られると枝分かれして枝をふやすものなのです。植物学者なら、じょうしきです」。
「ここにいる100人みんな知っているということか?じゃあなんでそれを言うのに3日間も相談していたのだ?」
「議長が、だれか1人答えろとおっしゃったので、誰がお答えするべきか相談していたのです。その結論を出すのに3日間かかりました」。
議長はあきれて声が出なかった。いちばん年をとった植物学者は言った。「そして、お答えするのは私という結論になりました。だから私がこのようにお答えしております」。
議長はようやく声を出すまでに5分かかった。
「じゃああらためてきこう。まどの枝を切るとどうなる?」。
「その分、枝分かれして、枝がたくさんふえます。そしてふえた枝の先につぼみをつけます」。
「つまり枝を切らなかった方がー」。
「つぼみは少なかったのです。そしてまちじゅうですでに多くの市民がたくさんの枝を切りました。その分たくさん枝がのびてたくさんつぼみがついて」
「たくさん花が咲くということか?」
「その通りです、議長」。
じっさい、あれから3日たったので、すでに議長室のまどは再び枝におおわれていた。そして前よりもたくさんのつぼみが、赤や青や黄色に色づいていた。
雲1つない、さわやかに晴れた夏の朝だった。最初に咲いている花を見つけたのは、犬の散歩をしている子供だった。公園の中でオレンジ色のまるい花びらが、朝つゆをつけてかがやいていた。次に見つけたのはパン工場ではたらく青年だった。国道をわたる陸橋の上に、青い花が信号のように大きく咲いていた。次に見つけたのはおばあさんで、ゲートボールに行く途中に黄色い花がもう1つの太陽のようにまぶしく咲いていた。次は道ばたに桃色の花が咲き、そして電線にむらさき色の花がひらき、小学校の正門に白い花、家のえんとつにはだいだい色の花、ビルの裏には水色の花、ゴミステーションに赤い花、スーパーマーケットの屋根に青い花と、どんどん咲いていった。電信柱や工場、ビル、大通りをおおっていた草にも次々に花が咲いた。それだけではなかった。人々の家の中や学校、会社の中では、ペットボトルや花びんにさしてあった枝に、つぼみがひらいた。まちの外でも中でも、次々に花が咲きだした。そしてその日のお昼すぎには、空き地や道路は花をしきつめたじゅうたんのようになり、ビルが建ちならぶオフィス街はかべも屋根も花でおおわれて、消えない虹のようにかがやいていた。そしてまちでいちばん高いテレビ塔の上には、いちばん大きなアプリコット色の花が咲いた。
市議会には、黒い背広を着た議員たちが座っていた。さいごに誰かが発言してから、すでに1時間以上、誰も何も言わなかった。
「誰か、発言は?」
議長がきいた。黒い蝶ネクタイをして、黒い背広を着た議員が言った。
「いまさら、我々に何ができるのでしょうか」。
黒ハンカチを胸ポケットにさした議員が言った。
「そもそも何を決めなければいけないのでしょうか」。
別の議員が言った。
「それはあの草が…」。そして小さくつぶやいた。「あの草の何が悪いのだろうか?」
みんな口々につぶやいた。
「どうして我々はあの草を退治しなくてはならないのだろうか」。
「草があると誰がこまるんだろうか」。
「花が咲くことを禁止する理由はあるのだろうか」。
「そもそも禁止することは可能なのだろうか」。
「我々は何を禁止したいのだろうか」。
「禁止することで何を得たいのだろうか」。
「禁止する必要はないのではないだろうか」。
「ではここで我々が決めるべきことは何もないではないか」。
「何もすることがないなら帰ってもいいのではないだろうか」。
やがて議員たちは一人ずつ立ち上がって、議会から出た。そしてそのまま自分の家に帰っていった。
議場には議長だけがのこった。そこに秘書がやってきた。
「議長、報告です」。
「なんだ」。
「海外からたくさんの観光客がやってきました。ソウル、北京、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ベルリン、ハンブルグ、マドリード、ストックホルム、モスクワ、メキシコシティ、サンパウロ…」。
テレビ塔から発信される電波は、草と花を通じて、全世界のテレビに届いた。市内のすべての地面と建物が花に咲いている様子を、全世界の人々が見た。その風景をこの目で実際に見てみたいと、世界中のあらゆる場所から人々が訪れたのだった。
「ビューティフル!」
「トレビアン!」
「好呀!」
「ファンタスティッシ!」。
誰もがみな、その光景におどろいた。そしてすばらしい、と言った。とにかくまち全体が花だらけなのだ。朝はたくさんの小さな宝石がキラキラとかがやくようで、昼はたくさんの小さな風車が回っているようで、夕方はたくさんの小さなビー玉が転がっているようだった。夜は夜で星が地面にあってまたたいているようだった。そして次から次へと花は咲いていったから、ある日はピンク色の花がいっぱい咲いたり、ある日はオレンジ色の花が咲いたりして、毎日あきることがなかった。そしてまちの中をどれだけ歩いてもまるでゆうだいな自然の山や谷を歩いているように、緑と花と青空ばかりだった。道路も家も工場もビルも広場も全部花でおおわれているから、どこが道路で家で工場でビルなのかわからないくらいみごとだった。そしてどの建物も同じように花でおおわれているので、海外からやってきた人たちはどれが自分の泊まるホテルなのかわからず、関係のない会社のビルや、ときにはふつうの家にまちがえて入ってしまうことがあった。そんなとき、まちの人々はせっかく花を見にきてくれたのだからと、親切にただしいホテルに案内してあげたり、それでもわからないときには自分の家に泊めてあげたりした。そしてついでに自分の家や庭にある花を花束にしてプレゼントしたりした。海外からきた人たちは、花でいっぱいのまちにしたこのまちの人々はすばらしい、と市民を見つけるたびに握手をした。握手をされた人もうれしくなって、花でいっぱいのこのまちに住んでいることをうれしく思った。そしてそんなまちを、たくさんの花々の香りがつつんでいた。ともだちに「おはよう」とあいさつするときも、知らない人に「こんにちは」とあいさつするときも、かぞくに「おやすみ」というときも、いつでもおだやかな香りを感じた。街に住む人も、訪れた客も、みんな毎日がおだやかで楽しくうれしかった。
観光客たちは自分の家に帰ると、すばらしい花のまちの思い出を語り、それをきいた人たちが自分でもこのまちを見てみたいとやってきた。その人たちもまた家に戻ると思い出を語ったので、訪れる人はたえることがなかった。
世界中のテレビ局も取材に訪れた。そしてそのほとんどが議長にインタビューを申し込んだ。今日もアメリカのニューヨークのテレビ局のインタビューだった。
「最初に、あなたが草の芽に水やりを指示したのですか?」
「そうじゃないんです、あれは本当は別のことをしたかったんですが、するとスプリンクラーが作動して…」。
「つまり、結果的にはあなたが水やりのきっかけを作ったんですね?」
「いえ、まあ、そうですね」。
「ウシで肥料をつくったりしたのも?」
「結果的には…」。
「動物園の改装と草のための明るい照明をつけることまで考えたのもあなたですよね?」
「そのほうがむしろ草が…」。
「けんきょな方だ。さいごに。まちがこんなに花でいっぱいになることは予想していましたか?」
「そんなまさか」。
「予想できないすばらしさだったというわけですね」。
どこのテレビ局の取材もこの調子だった。議長は自分がむしろ草を枯らしたかったはずなのに、逆にほめられてばかりだった。そしてこんなインタビューを何回も何回も受けているうちに、ほめられるのがうれしくなってきた。どうじに、相手のいうことに全部「ちがいます」というのもめんどうに感じてきた。そして取材も10回をこえるころには、こんなふうに答えるようになった。
インタビュアー「最初に、あなたが草の芽に水やりを指示したのですか?」
議長「そうです。ああいうことをするとスプリンクラーが作動すると思って」。
インタビュアー「つまり、あなたが水やりのきっかけを作ったんですね?」
議長「いえ、まあ、そうですね」。
インタビュアー「ウシで肥料をつくったりしたのも?」
議長「そうですね」。
インタビュアー「動物園の改装と草のための明るい照明をつけることまで考えたのもあなたですよね?」
議長「そうです。そうすると草が…」。
インタビュアー「まちがこんなに花でいっぱいになることは予想していましたか?」
議長「そうなればとずっと思っていました」。
花がずっと咲き続けることはない。1か月ほどたったころ、少しずつしおれてきた。あざやかだった花びらはうすくなったり、茶色がかったりした。そして1まい1まい、ひらひらとまいおちていった。道路の花も空き地の花も建物をおおっていた花も、やがてすべての花びらが地面に落ちた。家の中で花びんにさしてかざっていた花は、すでにずいぶん前に枯れていた。海外からやってくる観光客の数も少しずつへっていった。
さらに1か月たったころには、花はなく、かわりに実がなっていた。赤く小さなまるい実が、花のあった場所にいっぱいなっていた。季節はすでに秋だった。まちの人たちは花がいっぱいあることにはすでに満足していたので、ちがう季節がやってきたことも楽しく思った。海外からやってきた人たちは、その赤い実をながめて花のあった季節をしのんだ。
議長は黒い自動車に乗って、議事堂に行くところだった。といっても、議員たちはあれっきりもどってこなかったので、いつも1人で議事を行っていた。つまり、自分で提案して、1人で議論して、多数決で決める。多数決といっても議長しかいないから、自分の意見だけで決めるのと同じだった。
「ではジャムお持ち帰り条例を可決します」。
がらんとした議事堂で、議長の声がひびく。なにしろ1人だけなので、審議に入ってから5分で可決された。以前なら何日もかかっていたのに。議長は少しさみしかった。でもジャムお持ち帰り条例があれば、草の実を煮つめて砂糖を入れてジャムをつくれる。そしてそれを海外からきた人たちが持って帰ることができる。ただただ、このきらいな草のいくぶんかでも、このまちからなくしたかっただけなのだ。議長はそう思っていた。でもそればかりではないような気もした。
じっさい、たくさんの観光客がジャムをおみやげに買っていった。草の実はいくらでもあったので、どれだけジャムをつくっても足りないくらいだった。もちろん市民たちも買った。買わずに、自分で実を収穫して、自分でジャムをつくる人もあった。実にはビタミンとかポリフェノールとか、栄養がいっぱいあったので、まちの人たちは健康になった。
しかし、いくらとってもとっても、実はなくならなかった。公園や道路わきなど、地面に近いところはかなり収穫したのだが、信号にからまっているものやビルの壁など高いところにあるものはまだたくさんのこっていたのだ。ある日曜日、議長が散歩をしていると、海外からの観光客が議長にきいた。
「のこっている実をおみやげに持ってかえりたい。オーケー?」
議長は言った。
「オーケーです」。
もう、どんどん持ってかえってもらいたかった。目の前からなくなってもらいたかったのだ。でも、はたしてそれだけだろうか?観光客はよろこんで、実をハンカチでつつんでポケットに入れた。その姿を見ていると、自分の好きなものをおすそ分けしているような嬉しさを感じた。まさかそんなはずはない、と議長は思ったが、自分でもよくわからなかった。
実を持ってかえってもかまわない、といううわさが広まったのだろうか、それから数日間は、まちのあちらこちらで、実をおみやげとしてポケットやカバンに入れ、持ってかえる観光客の姿を見かけた。ソウル、北京、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ベルリン、ハンブルグ、マドリード、ストックホルム、モスクワ、メキシコシティ、サンパウロなど、世界中からやってきた観光客がおみやげに実を持ってかえった。
すでに秋も深まった。冬が近いのか、気温の上がらない日がつづいた。そしてある朝、霜が降りた。議長が家のまどから外を見ると、なんとすべての草が枯れていた。
「そうか、なにも無理をしなくても草はいずれ枯れてしまう運命だったのだ」。議長は思った。そして議事堂に足を運んだ。すると、このところすっかり姿を見せなかった議員たちが集まってきていた。
「どうしたのだ、みんな。今まで顔を見せなかったのに?」。
みんな、以前にうつむきながら議事堂を去ったときとはうって変わり、なんだか晴れ晴れとしたかおをしていた。
黒いコーヒーカップを持って黒い背広を着た議員が言った。
「議長、勝利宣言を出しましょう」。
「なんだねそれは?」
「われわれのまちが、草に勝ったという宣言です」。
「勝った?」
議長は思わず聞き返した。黒いベルトをして黒い背広を着た議員が言った。
「勝ったではありませんか、草は枯れてしまったのです。それは我々が今までさまざまな対策を講じたからではありませんか!」。
「それはちがうと思う」。議長はしずかに言った。「我々はなにもしなかった。いや、できなかった。草は勝手に育って、勝手に枯れただけだ」。
議員たちは、議長が何を言ったのか、よくわからなかった。だから草に対する勝利宣言を出そう、という話をつづけた。10分ほどの議論の末、多数決をとることになった。そしてその結果もすぐに出た。賛成多数、反対は議長の1票だけだった。みんな議長の1票は無視をして、勝利宣言を出すことにした。
クリスマスになるまでに、枯れた草は市民の手でぜんぶかたづけられた。まちはすっかり以前の姿にもどり、信号にもビルにも空き地にも公園にも、草の姿はすっかりなくなった。人々は草のあったことなどすっかり忘れたかのように毎日じぶんの会社や学校に行き、そこで仕事や勉強をして家に帰った。地下鉄の中も以前と同じようなラッシュアワーがもどっていた。あいている席があればだれかが座った。
さらに季節がすぎて春になるころ、まちで市長選挙があった。議長は、議長をやめて市長に立候補をした。演説会で、もと議長はこんなことを話した。
「さくねん、私は市民のみなさま方に植物のあるくらしをご提供いたしました。じっさい、花があることで皆様の生活は楽しくなり、海外からも多数のお客様がお見えになりました。草花は我々の生活にとって、大きなうるおいをもたらします。ですから私は、人と草花とがともに生きていけるようなまちにしたいとー」。
おなじころ、ロンドンの地下鉄の中。
発車を待つ、早朝のほのぐらい車内で、小さな芽が出た。芽が出たのは座席の上だ。芽には、小さな小さな葉っぱが2まいついていた。
また同じころ、モスクワの地下鉄の中でも、小さな芽が出た。
そして北京やニューヨーク、ベルリンの地下鉄でも、小さな小さな芽が出た。
観光客が持ち帰った実が、ポケットからこぼれ落ちたのかもしれない。つづいてソウル、パリ、ハンブルグ、マドリード、ストックホルム、メキシコシティ、サンパウロでも…。世界中の地下鉄のなかで、小さな草の芽が顔を出した。
「抜いてしまえ」。
「ダメだ」。
「どうしてこんな草に席をゆずらなければいけないんだ」。
「草だって生きているんだよ」。
そしてみんなでけんかになり、でも自分の駅に着いたら降りていった。芽は、またほんの少しだけ大きくなっていた。
その次の日も、地下鉄の人どうしでけんかになった。そしてみんな自分の駅で降りていった。また次の日も、その次の日も、毎日言い合いになった。芽は毎日、ほんの少しずつ大きくなっていった。
「近頃、地下鉄の中で、乗客どうしのもめ事が多いのだが、どうしてだろう」。
市議会で問題になった。
「それは地下鉄の中に、草の芽が生えているからだ」。黒い背広を着た男の人が言った。
「そんなもの、さっさと抜いてしまえばいい」。別の、黒い背広を着た男の人が言った。この人はさっきの人より太っていた。
「いやいや、抜くなんてとんでもない。はさみで切ったほうがいい」。この人も黒い背広を着ていた。すごく太っていた。
「はさみで切るだって?なんてバカなことを」。この人も黒い背広を着ていた。そしてすごくやせていた。「切るならナイフを使いなさい」。
黒い背広を着た市議会議員みんなで議論になった。
「ナイフよりノコギリで切るべきだ!」
「切ってはいけない、踏みつぶすべきだ」。
「毒薬をかけて溶かしてしまうのがいい」。
「そうじゃない、ちぎればいい!」
議論は一日かけても終わらなかった。仕方がないので次の日も議論をし、それでも結論がでなかったので、さらにその次の日も議論をし、それでもずっと結論が出ず、とうとう議論は一週間続いた。最後に、黒い背広を着た人たちの中で一番年をとっていて、一番長いひげをはやした人が言った。この人は市議会の議長だった。
「バーナーで焼いてしまえばいい」。
その日、乗客達はいつものように芽の場所をめぐって「抜くべきだ」「それはいけない」と言い合いをしていた。すでに座席の芽は10センチくらいの高さになり、葉っぱも5枚になっていた。地下鉄がある駅に止まりドアが開くと背中にガスのボンベを背負い、顔には熱をさえぎるために鉄製のマスクをした作業員が乗り込んできた。作業員は全部で10人で、みな右手に、長さ1mくらいの細長い筒を持っていた。先頭の作業員が、自分のベストについたボタンを押すとベルトのスピーカーから音声が出た。
「タダイマヨリ、サギョウヲカイシシマス。キケンナノデチュウイシテクダサイ」。
そして10人の作業員達はいっせいに右手に持った長い筒を、小さな草の芽に向けた。次の瞬間、ゴォーという音とともに真っ赤な炎がその先から吹き出した。火炎放射器だった。乗客はわっと飛び退いた。座席の上の芽に10の炎が迫る。まさに、草の葉に炎がふれようとしたその時だった。
ザー!
上から激しく水が降ってきた。
「雨だ!」
乗客の一人が叫ぶ。別の一人が言う。
「雨なものか、ここは地下だぞ!」。
「じゃあこれはなんだ?」。
「スプリンクラーだ!」。
「火炎放射器の熱に、火災報知器が反応したんだ!」。
まさに土砂降りのようにスプリンクラーから水が出ていた。火炎放射器はどれも水にぬれ、プス、プスと音を立てたかと思うとそれきり動かなくなり、炎は消えてしまった。作業員たちの服も水びたしになった。「ゼンイン、タイキャク!」。ベルトのスピーカーからそんな音声が出て、次の駅に地下鉄が着くやいなや、作業員たちは降りていなくなってしまった。
おこったのは乗客たちだ。みな服がずぶぬれになってしまい、会社や学校に行けなくなってしまった。「どうしたらいいんだろう?」。
「どうして私たちがこんな目に遭うのでしょう?」。
「だれがわるいんだろう?」。
「火炎放射器を持った作業員が悪い」。
「じゃあ彼らに文句を言おう」。
「ちがう、彼らをここによこした奴らに文句を言うべきだ」。
「それはだれだ?」。
「市議会員たちだ!」。
乗客たちは次にとまった駅で地下鉄を降り、濡れたまま市議会の議事堂に押し寄せた。そして落ちている板や棒を拾ってプラカードを作り、「クリーニング代をかえせ!」とか「火炎放射器反対!」「市議会はすぐにぬれた服をかわかせ!」といったことをペンキで書いて市議会の前で騒いだ。かれらはそのあと日が暮れるまで騒いでいたらしいが、そのあいだに地下鉄の中ではさらに大変なことが始まっていた。
すっかり水びたしになった車内。床がぬれている。窓もぬれている。ぶら下がったつり革からも、しずくがポチャ、ポチャ、としたたり落ちている。とうぜん座席もぬれている。10センチほどの芽はたっぷりと水をもらって、いきいきとしている。そしてグン、グンと大きくなる。葉っぱがどんどん出てくる。それだけではない。ほかの座席からも新しい芽が出てくる。はじめは小さな小さな緑色の葉っぱが1まい。やがて2枚。そして背がのび、葉がふえていく。そんな芽が地下鉄の中で1つではない。2つ、3つと芽を出し、見る間にその数は5つになり、10になり、気がつけば車内中に無数に生えていた。
「では緊急特別予算として、地下鉄のスプリンクラーで水びたしになった乗客たちのクリーニング代の支払いを可決します」。
黒い背広を着て、いちばん長いひげを生やした市議会議長はそう言ったあと、安心してほうっとため息をついた。何しろ地下鉄でぬれた市民たちのクリーニング代を支払うべきか支払わないべきかという、支払うとしたらその予算はいくらなのかといった議論が1週間続いて、その間ほとんど眠れなかったからだ。そしてなによりつらかったのは、火炎放射器を使ったのが自分のせいだと責められたことだ。
「たしかに私はバーナーで焼くのがいいと言いました。でも、火炎放射器なんて言っていませんよ」。
議長はそう言い訳をした。そうしないと、自分がクリーニング代を払わされることになるからだった。だからいっしょうけんめい、責任は自分ではなく作業員たちと、彼らに命令を下した市議会議員全員にあるという結論になるように、みなを説得した。そうして1週間かかってようやく責任者は議長ではなく市ぜんたいだから、クリーニング代も市のお金からだすという議決にこぎ着けたのだった。
議場を出て廊下を歩きながら、議長は窓の外で乗客たちがよろこんで万歳をしている声を聞いた。無事にクリーニング代が出ることになったからだった。議長はそれが聞こえないように耳を手で覆い、そして議長控え室に入った。ここに入ればもう万歳の声は聞こえなかった。議長はもう一度ほっとした。そして心の重荷がとれたので、自分の好きなものを飲んでお祝いをしようと思った。議長は秘書を呼んだ。
「お呼びでしょうか、議長どの」。
「わしはいまようやく安堵した。おいわいに、好きなものを飲みたい」。
「お酒ですか?」
「ちがう、わしの好きなものと言ったら、牛乳だ」。
「かしこまりました。すぐに牛乳をコップに1杯持ってきます」。
「そうしてくれたまえ」。
でも秘書はそこに立ったままだった。
「どうしたんだ、はやく牛乳を取りにいきたまえ」。
「はい。でもその前に1つご報告を」。
「なんだ」。
「地下鉄の中で、芽がいっぱい出ています。たくさん生えて、地下鉄の中は草の芽だらけです」。
そう言って、秘書は出て行った。議長はひとり、眉間にしわを寄せ、苦々しい気持ちで椅子に座っていた。さっきまでの安堵はすっかり消え去った。なにしろまた心配事がふえたからだ。1本だけだった草の芽がたくさんに増えている、1本でもたいへんなのに、いったいどうしたらよいのか?
議長が頭を抱えて座っていると、秘書が牛乳の入ったコップを持って入ってきた。
「牛乳です、議長どの」。
「ああ、もう牛乳を飲みたい気分ではなくなった」。
「ではお下げしますか、議長どの」。
「ああ、そうしてくれ…。いや、ちょっと待ってくれ」。
議長は何かを思いついたらしく、にやりと笑った。長いひげが少し上を向いたように見えた。
「やっぱりこの牛乳はおいていてくれ。飲みたい気分になった」。
秘書は牛乳の入ったコップを置いて、ドアから出て行った。議長は窓の外を見て、一人で笑っていた。仕事の問題も解決して、自分にもいいことがある。牛乳はなんて素晴らしい飲み物だろう。だから牛乳は大好きだ。
朝のラッシュアワーだというのに、その車両には乗客が入るすき間はなかった。座席の上にも、床の上にも草が生えていたからだ。手すりにもツルが絡まり、つり革にもあみだなにものびてぶら下がっていた。「まるで野原だ」。と誰かが言った。車内がいちめん緑色だったからだ。そしてその地下鉄には、草を踏みつぶさないかぎり誰も入ることができない。でも、もし入ったとしても座席は草だらけで座れないし、吊革にもつかまることができないので、すぐに出て行ったしまったことだろう。だから誰も中には入らなかった。
誰もいない車内に、アナウンスの声が響き渡る。「さきほど市議会において地下鉄放牧条例が可決されました。この条例に基づき、当地下鉄内では草の除去作業が行われます」。
ドアが開き、遠くから「モォーモォー」という鳴き声が聞こえてきた。やがて、1頭、2頭と姿を現したのは、白と黒のまだら模様のホルスタイン種のウシだった。3頭のウシが牛飼いのおじいさんに連れられて車両の中にやってきた。そしてさっそく草を食べ始めた。床の上の草をおいしそうにモグモグと口に入れ、座席の上の新芽に舌をのばした。さすがに網棚やつり革にからまったものまでは口が届かなかったが、お昼過ぎまでおいしそうに草を食べた。そしてそのあと3時までぐっすりと昼寝をして、また草を食べ、消化した草をフンにしておしりから出し、やがて牛飼いのおじいさんに連れられて自分たちの家まで帰っていった。
翌朝もまたウシたちはやってきた。でも草を食べる前に牛乳をしぼった。それから地下鉄に入って、昨日残した草を食べ、お昼寝をし、また草を食べ、おしりから消化したフンを出し、また牛舎に戻った。
「ほらほら、思った通りだ」と長いひげの議長が言った。
その翌朝もまたウシたちはやってきた。そして草を食べる前に牛乳をしぼった。それから地下鉄に入って、昨日残した草を食べ、お昼寝をし、また草を食べ、おしりから消化したフンを出し、また牛舎に戻った。
「どれどれ、新鮮な牛乳はおいしいことだろう」。そういって議長は絞りたての牛乳をコップに1杯入れて飲んだ。
「おいしい!素晴らしくおいしい。草は減るし、おいしい牛乳が飲めるし、こんなに素晴らしいことはない」。議長はそう言った。そして次にはこんなことを思った。「こんなおいしい牛乳を私だけが飲むなんてもったいない」。
その次の日もウシたちは地下鉄に出かけ、草を食べ、昼寝をし、また草を食べ、消化したものを出して牛舎に戻った。そして作業員が牛乳をしぼった。
次の日から、パックに詰められた牛乳が、コンビニエンスストアに並んだ。「ちかてつ牛乳」という名前で、マークは地下鉄の切符の絵だった。
「ちかてつ牛乳」はおいしいと言うことで評判になった。どんどん牛乳が売れ、おいしいという評判を聞いて別の街からも牛乳を買いに来る人がやってきた。議長もたくさん新鮮な牛乳を飲んだ。おいしかった。別の街から買いに来た人たちもくちぐちに「おいしい」と言った。しかし、いっこうに草はなくならなかった。だからその地下鉄にはいつまでたっても人が乗れなかった。だから議長のところには、抗議の手紙がたくさん送られてきた。
「あなたは本気で草をなくそうと思っているのですか?」。「はやく地下鉄に乗れるようにしてください」。
中には議長を疑っている人もいた。「本当は牛乳を作りたいから草を残しているのではないですか?」。「牛乳の売り上げは、議長のお金儲けになっているのではないですか?」。
議長は困った。だって本当に草を退治したいと思っていたからだ。たしかに牛乳は毎日コップに10杯は飲みたいくらいおいしかったが、議長としては草を退治するのが仕事だった。しかし、こんなにウシが食べているのに、どうして草は減らないんだろうか。ウシはちゃんと草を食べておらんのではないだろうか。もっとウシががんばって草を食べるように言わなければいかん。
翌日、またウシが地下鉄にやってきたとき、議長は牛飼いのおじいさんに言った。
「もっとたくさん草を食べさせなさい」。
「ウシたちはいっしょうけんめい食べておるよ」。
「じゃあどうしていつまでたっても草はなくならんのだ」。
「だって、食べるはしから新しい草がのびるからの」。
「何でのびるんだ」。
「何でって、こんなに肥料があればのびるわの」。
「肥料をやっているやつがいるのか?」
「ウシのフンは、草のいい肥料になるんじゃよ。どんな肥料よりもウシのフンが一番じゃ」。
議長は言葉を失った。草を減らすためのウシが、草をのばす肥料を作っていたなんて。「おじいさん、これからはフンをしないようにウシに言ってくれ!」。
「わしはウシを飼って50年になるが、そんなことができたためしはないのう」。
議長はかおを真っ赤にしてウシに言った。
「ここでフンをするな!」
「モォー」。ウシは議長の言うことなどに耳を貸さない。
「フンをするんじゃない!」
「モォー」。
そして草は育っていくばかり。ついには車両の外まで拡がっていった。線路の上、ホームにも草が生えた。
3日後、地下鉄放牧条例は廃止になった。そのころにはホームの上は草原のように草が拡がっていた。
市議会ではまた議論になった。
「あんな草は燃やしてしまえ!」。黒い背広を着た男の人が言った。
「燃やそうとしたらスプリンクラーから水が出て、こうなったんじゃないか!」。別の、黒い背広を着た人が言った。
「だから最初に全部ハサミで切ってしまえばよかったんだ!」とまた別の背広の人が言った。「最初から私の言ったとおりにしておけばよかったんだ。だから私のせいではない」。
「誰のせいだという話をしているんじゃない。そもそも私が言ったように、カッターで切ればよかったんだ。だから私の責任ではない」。
「誰に責任があるとか、そんなことはどうでもいい。大事なのは最初に全部抜いてしまわなかったことだ!」。
「いやそうじゃない、私が言ったように毒薬で枯らしてしまえばよかったんだ!」
「いやいや、草刈り機で刈ればよかったんだ!」
「そんなこと言わなかったじゃないか!」
「私に意見を求められなかったから言わなかっただけだ!」
「ちがう、バリカンで刈ればよかったんだ!」
「バリカンはだめだ、踏みつぶせばよかったんだ」。
1日目の議論は、ああすればよかった、こうしたらよかった、という話ばかりで終わった。議長はみんなの言うのを聞きながら、ただ下を向いているばかりだった。自慢の長いひげもたれたままだった。
2日目は「ちかてつ牛乳」について議論をした。ちかてつ牛乳はとてもおいしかった、あのような牛乳は飲んだことがない、市民から評判がよかったと言うことを背広を着たみなが口々に話をした。そして「あのような牛乳ができたのは、我々市議会議員がウシを出動させるというすばらしい決定をしたおかげだ」という結論でみんながもりあがった。おかげでその日はみんなきげんよく家に帰った。
でも3日目は市民からの苦情で始まった。「車両にも駅にも草がいっぱいで、地下鉄に乗れない。仕事に行けないのではやく何とかして欲しい」。
「学校に行けなくて困っています。来週テストがあるのですが、行けないと零点になります」。
そこで議員たちは意見を出し合った。「草があるせいで、市民生活に支障が出ている。何とかしなければ」。
「そうだ!」
「でもどうやって?」
みんな黙り込んでしまった。そしてその日はそれっきり、無言のまま終わってしまった。
4日目は何とかして草をなくそう、と誰もが考えた。
「ハサミで切ろう」。
「もう手遅れだ」。
「カッターで切ろう」。
「それも手遅れだ」。
「ノコギリで」。
「同じことだ」。
「ふみつぶそう」。
「多すぎる」。
「毒薬をかけよう」。
「無理だ」。
「ちぎろう」。
「だれが?」。
「燃やそう」。
「前に失敗した」。
黒い背広を着た誰かが何かを言うと、別の黒い背広を着た誰かが否定して、その日は終わった。
5日目の朝、黒い背広の誰かが「気分を変えて、地下鉄の様子を見に行こう」、と言い出した。別の誰かが言った。「そうだ、そうしよう。これは重要な『しさつ』だ!」。しさつという言葉がかっこよかったので、ほかのみんなも「それがいい。そうしよう。しさつだ」と言った。そして誰かが「しさつだんを結成しよう」と言った。しさつだんという言葉もかっこよかったので、みんな「それがいい」と言った。そして市会議員全員でしさつだんを結成した。
6日目に議員たちはしさつだんとして、地下鉄に向かった。階段を下りると、ホームの上は草だらけで、駅の名前も、時刻表も、柱も草で覆われていた。どの草も1メートル以上はあった。もちろん地下鉄の中も草でいっぱいだった。車両のはしに、運転手さんが立っていた。しさつだんの議員たちは草をかき分けて駅におり、運転手さんに言った。「なにをしとるんだね?」
「地下鉄を動かせないから、何もしていません」
と運転手さんは言った。
「ああ、それはいかんな。なんとかしたまえ」
と別の議員が言った。
「わかりました。ではそのまえにこの草を何とかしてください」
と運転手さんは言った。
「責任をてんかするなんて、君のたいどはなっとらんな」
とまた別の議員が言った。
そうだそうだ、とほかの議員たちは言った。そして地下鉄が動かないのは自分たちのせいじゃないことに満足して、その日は家に帰った。
7日目。
「地下鉄が動かないのは、運転手のたいまんのせいだったな」。
「そのとおりだ」。
「だからわれわれはこれ以上、議論をしなくてもいいんだ」。
「そうさ。なにしろ悪いのは運転手だ」。
「まったくだ。『この草を何とかしてください』なんて、責任逃れもいいところだ」。
「それにしてもあの草はすごかったな」。
「わしの首くらいまであった」。
「それが駅の中いっぱいにひろがっておった」。
「まるで野原みたいだった」。
「野原?そんなもんじゃない。あれはまさしく草原だ!」。
「草原だって?あれは草原なんて生やさしいもんじゃない」。
「じゃあなんだ!」
「サバンナだ」。
「サバンナって何だ?」。
「アフリカにある大草原のこともしらないのか?ライオンやシマウマがいるところだ。それだけじゃない、ゾウやチーターもいるぞ」。
それまでずっと下を向いていた議長の長いひげが、ピクリと動いた。この7日間ではじめてだった。
特別予算として、市営動物園の改装費用が圧倒的多数で可決された。動物園はもっと広くて住みよい建物に建て替えられる。これまで大きな動物をたくさん飼っていた動物園の飼育員さんたちは、動物たちがのびのび過ごせて心地よい小屋ができると喜んだ。もちろん動物たちも喜んだ。しかも、その改修は今すぐ行われるという。ただ、1つだけ飼育員さんと動物たちのぎもんがあった。動物小屋の改修工事をしているあいだ、動物たちはいったいどこでくらせばいいのだろうか?
「動物たちは、一時的に、別の場所に収容します」。
市議会から派遣された職員が、飼育員さんと動物たちに言った。
「どんな場所ですか?」。飼育員さんたちは聞いた。
「草がいっぱいの場所です」。
「どれくらい、いっぱいですか?」
「まるで動物たちのふるさとのようにいっぱいです」。
「まるでサバンナのように?」
「そう、そのとおり。まさにサバンナ」。
飼育員さんたちと動物たちは安心した。
「ではみなさん出発しましょう」。市議会の人が言った。
ふだんなら動物園に来る人たちが出たり入ったりするゲートから、動物たちがのっしのっしとあらわれた。最初はライオン、続いてシマウマ、そしてキリン、サイ、ゾウ、チーター、カバ、ダチョウ…。みんなお行儀よく、列をくんで歩いた。坂道をくだり、橋をわたり、車がきたら止まり、踏切をわたり、商店街のアーケードをくぐり、高いビルのたちならぶオフィス街を抜けて、そして地下鉄の入口から階段を下りていった。
動物たちは喜んだ。地下鉄の駅は見渡すかぎり草でいっぱいで、とても気持ちよく暮らせそうだったからだ。
「おっほん」。
市議会議長が、長いひげをピンとのばしてあらわれた。そしてとてもうれしそうにこういった。
「動物のみなさん、新しい動物園ができるまではここでゆっくりとすごしてください。ゾウさんやキリンさんなど、草を食べるのが大好きなかたがたはぜひともここにある草を思うぞんぶん、たべてください。ライオンさんやチーターさんなど草を食べない方々は、思うぞんぶん草の上でねころがって、草をつぶしてください」。
動物たちは喜んだ。シマウマやカバ、サイといった背の低い動物たちはホームの上に生えている草を食べ、キリンやゾウといった背の高い動物は柱や時刻表といった高い場所に絡んでのびている草を食べた。どちらも、食べても食べても食べきれないくらいあるので、とてもうれしそうだった。そしてライオンやチーター、ハイエナといった草を食べない動物たちは、思い思いにねころんだ。横になったりまるくなったり、あおむけになったりして、地面の草をクッションがわりにしてつぶした。駅は広かったので、いくらでもねころがる場所があった。そしてどの動物たちも、夜は地下鉄の車両にはいり、それを小屋がわりにしてねむった。
それから毎日、動物たちはたくさんの草を食べ、ねころび、夜はぐっすりとねむった。地下鉄は動物たちにとって、とてもくつろげる場所だった。だから毎日ニコニコとすごした。ニコニコしている動物を見るのは、人間にとっても楽しいことだった。仕事でこまったことがあったり、学校の勉強がわからなくなったときに、人々は地下鉄にやってきて動物を見るようになった。そして動物のニコニコしている顔を見て自分もニコニコした気分になって帰っていった。
さみしい気持ち、つらい気持ちになっている人たちの多くが動物を見にやってきた。なかにははるばるほかの県からやってくる人もいた。その人もニコニコした気分になって帰り、自分の家族や仕事なかまや学校の友だちなどにそのことを話した。そしてさらに多くの人がやってきた。ラジオ局やテレビ局も取材に訪れた。その放送を見た人が実際に自分の目で見ようとやってきた。1か月もしないうちに、この臨時動物収容所は「ちかてつどうぶつえん」として日本全国で有名になった。
市議会議長も、長いひげをゆらしながらニコニコと笑っていた。改装中の新しい動物園ができあがるまで、まだあと2か月くらいかかるが、すでに地下鉄にあった草の半分くらいが、動物たちにたべられたりふみつぶされたりしてなくなっていたからだ。のこっている草も、ずいぶん弱々しい姿になっていた。
「われながらすばらしい思いつきだった」と議長はわらった。「まさにアフリカのサバンナ、弱肉強食の世界。草は動物に食べられる運命なのだ」。この調子でいくとあと1か月ほどですべての草がなくなるはずだった。その日のことを想像するだけで、議長はうれしくなる。おおきななやみごとが消えてなくなるのだから。そのときには世界で一番おいしいと言われているロマネ・コンティの牛乳でかんぱいしよう、と思った。と、とつぜんドアをノックする音が聞こえた。
「入りたまえ」。
秘書が紙を1枚手に持って入ってきた。「議長どの、報告です」。
「思ったよりはやく草がなくなるという予想かな?」
「いえ、ちがいます」。
「なんだ」。
「動物たちの元気がなくなっております」。
「え?」
「ごはんを食べる元気もなく、ただぼんやりとしております」。
「どうしてだ?」
「わかりません」。
「すぐに学者を呼んで調べさせろ!」
大学のえらい動物学者が地下鉄にはけんされた。動物学者はふつうのものより3倍くらい大きな大きな聴診器を持って駅におり、それをライオンやゾウ、キリン、カバ、チーターといった動物たちのおなかや背中に当てて診察をした。そして一日中かかってぜんぶの動物の診察を終え、議長に報告した。
「げんいんは簡単です」。
「なんだ。動物たちが草を食べてくれないとこまるんだ。はやくなおしてくれ」。
「ニッショウブソクです」。
「そんな病気は聞いたことがない」。
「日照が不足しているんです。ほんとうだと動物たちはアフリカのさんさんとした太陽の光を浴びて生きているのです。でも地下鉄の駅は青白い蛍光灯の光があるだけ。これでは動物たちにとっては暗すぎます」。
「でも地下鉄なんだからしょうがないじゃないか」。
「地下鉄以外の場所に移動してあげれば、元気になります」。
「だめだ!地下鉄にいてもらって、草を食べてもらわないと意味がないんだ!」
「そうはいっても、このままではどんどん元気がなくなって、草もまったく食べないでしょう」。
「うーん、どうしたらいいんだ?」
「地下鉄に太陽くらい明るい照明をつけてあげたらどうでしょうか」。
「なんだ、それでいいのか!今すぐ地下鉄の駅を明るくしよう!」。
すぐに工事が行われ、地下鉄の中にはまぶしい照明器具がいくつもつけられた。まるでアフリカの太陽のような光を浴びて、動物たちはすぐに元気をとりもどした。ゾウは高く鼻を上げ、キリンは首をのばし、ライオンはたてがみを広げ、チーターは時速100キロで走った。
「動物たちが元気になりました」。動物学者は議長に言った。
「それならよし。これで問題はない」。議長は言った。「まったく心配したよ。これからも動物たちの健康には気をつけてくれ」。
「わかりました」。動物学者は言った。
「では行ってよろしい」。議長は言った。
動物学者は、議長の部屋を出るときに言った。「おかげで、植物も元気になりました」。ドアが閉まった。
すばらしい光を浴びて、草も元気をとりもどした。植物は光があれば光合成をして、自分で栄養をつくることができる。だから元気になる。かなり動物たちに食べられたりふんづけられたりはしたものの、明るい光をさんさんと浴びて、今ではどの草もシャンと茎が上を向き、葉をモクモクと茂らせ、どんどんひろがっていった。ゾウやキリンやサイがいくら食べても追いつかないほどひろがっていき、すぐにもとのとおり地下鉄の駅と車両をすべてうめつくすほどになった。もちろん、それだけではとまらない。駅のホームのはしまでいって場所のなくなった草は、階段とエスカレーターにひろがった。時刻表や柱にからんでいた草も、つぎにはパイプや電線にまきついて、さらにエレベーターをつるすワイヤーにのびていった。
「なんとかならんのか!」議長は動物学者にさけんだ。
「私にはどうすることもできません」。動物学者は言った。
「だって、君が明るい照明を入れろと言ったんだぞ!」
「それはあなたが、動物を元気にする方法を考えろと言ったからです」。
「わしのせいか?」
「そうです」。
議長は頭をかかえて言った。「何とかする方法はないのか?」
「私にはわかりません」。動物学者は言った。
「じゃあ誰ならわかる?」
「植物学者ならわかるかもしれません」。
「じゃあ、しりあいの植物学者をすぐにここへ呼んでくれ」。
植物学者が呼ばれた。議長がさけぶ。「草が駅から階段にひろがっている。何とかしてくれ」。
「それは、何科の何属の何という品種ですか?その学名はなんですか?」
「しらん!」
「では対処のしようがありません」。
「君は植物のことは何でも知っているんだろ!」
「私はキンポウゲ科イチリンソウ属ニリンソウのことは何でも知っていますが、それ以外のことは何も知りません」。
「では、だれなら何でも知っているんだ?」
「植物学者は自分の専門ことは何でも知っていますが、それ以外は何も知りません」。
「じゃあ、植物学者を100にん、ここに呼べ!」
100人の植物学者が議長室に集められた。もちろん、全員は入らないので多くの植物学者は寒い廊下にあふれるほどだった。議長はさけぶ。
「草がエレベーターのワイヤーをつたって、外に出ようとしている!どうやって止めればいいんだ?」。
植物学者たちはたがいの顔を見る。誰も何も答えない。再び議長がさけぶ。
「階段にひろがった草は、もう改札を出ようとしている。何とか止める方法はないか?」
植物学者の中で一番年をとった人が言う。「議長、それが何という植物かわかれば、この中の誰かが言うでしょう。でも、専門じゃない植物のことはわかりません」。
「じゃあ、君たちが実際に見に行って、何の植物か調べてくれ!」
「自分の専門以外の植物のことを調べるわけにはいきません」。
「なんでだ?」
「専門以外のことはわからないからです」。
その時、秘書が入ってきて議長に報告する。
「議長、草は改札を出てひろがっています。今はさらにそこから地上に出る階段にひろがっています」。
「非常じたいだ!」議長はかおを真っ赤にしてさけぶ。「だれか、このきんきゅう事態を何とかしようという人間はおらんのか!」。
植物学者たちはたがいの顔をみあわせた。誰も何も言わなかった。
「じゃあ、もういい!君たち植物学者にはたのまない!でもせめて、植物学者以外に、誰にたのんだらよいのか、教えてくれ!君たちのように専門的すぎず、何でも知っている学者はいないのか?」
「それは博物学者がよいと思います」。一番年をとった植物学者が言った。
植物学者はみな自分の研究室に帰され、かわりに博物学者が議長室に呼ばれた。議長は博物学者に言った。「このきんきゅう事態をなんとかしてくれ!」
「私にわかるのは、自然を分類することだけです」。博物学者は言った。
「じゃあ非常事態を何とかする学者は誰だ?」
「地下鉄のことなら、交通工学の学者かと思います」。
博物学者の代わりに、交通工学の学者が呼ばれた。
「君なら何とかしてくれるだろう」。議長は言った。
「私にわかるのは車や地下鉄の運行のことだけなので、都市工学の専門家がよいと思います」。と交通工学の学者は言った。そこで都市工学の専門家が呼ばれた。
「地下鉄の階段を何とかしてくれ」。議長は言った。都市工学の専門家が言う。
「階段なら私より人間工学の学者がよいと思います」。そこで人間工学の学者が呼ばれる。議長が言う。
「もう動物たちでは間に合わないんだ」。
人間工学の学者が言う。「それなら動物学者に」。
議長はさけぶ。
「最初に動物学者に聞いたんだ!問題をたらい回しにするな、そんなことは我々お役所のすることだ!」
そして草は階段やエレベーターから外に出て、地上にひろがった。
地上には初夏の太陽の光がさんさんとふりそそいでいた。地下鉄の照明がどれだけ明るいとは言っても、ほんものの太陽には負ける。草はたっぷりとほんものの太陽の光を浴び、どんどん大きくなった。もちろん晴れた日ばかりではないが、雨がふれば地面はうるおい、草はまたのびた。風が南にふけば南へ、東にそよげば東へ、草はひろがった。草は、今までなかったくらいのびのびと育ち、ひろがっていった。
はじめに街の大通りが草だらけになった。タクシーの運転手さんたちは「大通りをさけて走らなきゃならねえ」とグチをこぼしあった。どうしても大通りを通らなければ行けないときには、その前で車を止めて、歩いてお客さんを案内した。今まで車の中にしかいなかった運転手さんたちは、たくさん歩くことになったのでみんな健康になった。
つぎにオフィス街のビルの壁が草におおわれた。どのビルも同じ緑色の壁になったので、自分の会社をまちがえる人が続出した。まちがえて入った会社で、気づかずにそのまま仕事をしてしまう人もいた。すると新しい知り合いができたり新しいアイデアがわいたりして、みんな残業なしで仕事が終わるようになった。そして家に帰ってのんびりとした時間をすごせるようになった。
さらに信号に草がからまった。のびた草は赤と黄色の信号をおおいかくしたので、ぜんぶ緑色になった。青信号ばかりになって交通事故がふえるかと人々は心配したが、かえって運転に注意するようになって前よりも事故がへった。
駐車場にも草はひろがった。そしてアスファルトの上をうめつくして草むらになった。そこにバッタやコオロギ、チョウやトンボなどの昆虫がたくさん住み、こどもたちが虫取りをしてあそんだ。日がくれるまで草むらであそんだこどもたちは、おなかをすかせて家に帰り、晩ごはんをおなかいっぱい食べた。
電柱に草がからまった。からまった草は電線や電話線をつたってのびた。のびすぎて、ときには道路をへだてた電話線の草と草とがからまってしまうことがあった。そうすると電話が混線して、まったく関係ない人が電話に出ることがあった。知らない男の人と女の人どうしが会話をして、それがきっかけでデートをして結婚するカップルもあった。
学校にも草はひろがった。まず運動場が草むらになったので体育はできなくなり、つづいて教室の黒板がおおわれたので授業は黒板を使わない音楽と図工だけになり、そして机も椅子も草だらけになったので、最後には屋上が教室になった。そして屋上でみんなであおむけにねころがり、青空の広さと深さを味わった。
市のなかでいちばん高い建物はテレビ塔だ。そのテレビ塔にも、草はひろがった。鉄骨にからまり、階段をよじ登り、1日ごとにおよそ10mのびた。そして20日で展望台の窓ガラスをすべておおい、30日足らずでてっぺんまで到達した。そしてさらにテレビ塔のてっぺんからも草が生えた。その高さは30mをこえた。だからテレビ塔から発信される電波は草を通じて、今までよりはるか遠くまで飛ぶようになった。市内だけでなく、全国全世界のテレビに電波が届いた。市内のすべての地面や建物が草におおわれている様子を、全世界の人々が見られるようになった。
「議長、新聞記者が参ります」。秘書が言った。
市議会議長はまどの外から街のようすをながめていた。道路も建物も、どこもかしこも草でおおわれていた。そして草のおかげで人々が楽しくすごすのを見て、にがにがしい気持ちになっていた。そして何よりもはらだたしいのは、この市役所のビルにも草がからまり、地上10階にある議長の部屋のまどにまで草がしげっていることだった。これまで、草をなくそうとした議長のこころみは、バーナーもウシも動物園もみんな失敗していた。このまどから見えるひらひらとそよぐ草の葉は、そんな議長をあざ笑っているかのように思えた。「おそらく、今からやってくるテレビ局の新聞記者も、この草を見て私のことをわらうのだろう」。議長はひとりごとを言った。負けた。私は草に負けたのだ。
コンコン、とノックの音が聞こえて、20才くらいの女性の新聞記者がやってきた。「こんにちはー。こちらが市議会でいちばんえらい、議長さんでーす」。入ってくるなり、新聞記者の女の人が言った。「こんにちはー」。女性が議長に近づいて言った。思わず議長も言った。
「こんにちはー」。
「議長さんですかー?」
「はい、そうでーす」。
「議長さんが、街にこのみどりを増やしたのは本当ですかー?」
「何を言っておるんだ、私がやったのではない!むしろ私はそうならないようにー」。
「あらまあ、ごけんそんを!地下鉄の草に水を与えたり、牛のフンの肥料をあげたり、いっぱい育つようにたくさん照明をつけたりしたのは、議長さんですよねー?」。
「え?」
「さすがー」。
「は?」
「すばらしい決断ばかりでしたねー」。
「あ、いや、それほどでも」。
「最初はどんなお気持ちでしたか?」
「最初?そりゃ、こんな草なんて、はやく消し去りたいと思っていました」。
「つまりきらいだったと?」
「もちろん。今でもー」。
「今では、逆に好きになったと」。
「好きに?そんなー」
「そんなに好きですか?」
「あ?そんな、まあ」。
「まあまあ好きということですね? きっと議長さんのところにも、市民からお手紙がたくさん来ているのではないですか?」
「手紙ならいっぱいきていますよ。よくもこんなことをやってくれたなとか、これからはかんちがいするなとか」。」
「よくやってくれたとか、これからもがんばってくれとか」。
「そうそう、いやそうじゃない」。
「そんなにいやじゃない」。
「そうです」
「草がふえるのはそんなにいやじゃない、という意味ですよね?」。
「え?」
「ごけんそんを。だって、こんなにたくさん草がふえたのは、議長のごはんだんがあったからでしょう」。
「ごはんより牛乳が好きです。つまりー」。
「つぼみー」。
「え?」
「ほら、つぼみがまどの外に」。
議長はまどを見た。葉と葉のあいだに、まるくふくらんだ緑色のまるいものがある。まるいものの表面は、ほんのりと赤い色をしていた。
「これ、つぼみ?」と議長はきいた。新聞記者はまどの外を指して言った。「ほら、ここに赤いつぼみ、こちらは青いつぼみ、こっちは黄色いつぼみが」。
見ると、たしかにいろんな色のつぼみがあった。議長は急に顔が熱くなるのを感じた。
新聞記者が言った。「きっともうすぐ咲きますよ」。
「え?今あなた、なんとおっしゃいましたか?」
「もうすぐ咲きますよ、と」。
「いかーん!市議会を開催する!今すぐ議員たちを集めろ!対策を考えねば!」。議長はさけんだ。今すぐ対策が必要だった。でも、何をするための対策なのかは自分でもわからなかった。
議員の一人がさけぶ。
「断固として反対する!」。
「草が花を咲かせることに、反対する!」。黒い背広の太った男がさけぶ。
「そうだ反対する!」。もっと太った背広の男がさけぶ。黒いシルクハットをかぶった男もさけぶ。「断固反対する!」。
黒い背広を着てやせた男もさけんだ。「許可なく花が咲くことは許されない!」。「そうだ」「そうだ」。
みんなに賛成されて、その男がさらに大声を上げて言う。「許可なく花が咲くことは、この市では許されない!なぜならば!」「なぜならば!」
「なぜならば…」。男はだまってしまった。まわりの議員たちは、彼が次に何を言うのか待った。そして10秒ほど考えたのち、男はこうさけんだ。「理由なんかどうでもいいのである!われわれ市議会の許可なく何かするのはだめなのである!」「そうだ」「そうだ!」「許可がないのはだめだ!」。
黒いクツをはいて黒い背広を着た議員もさけぶ。「ましてや、赤や青や黄色など、勝手な色で咲くなどもってのほか!」。
「許可なく花が咲くのを禁止する条例をつくろう!」。
「それがいい!」。
「花が咲く場合には市議会の許可が必要だということにしよう!」
「もし許可なく咲いた場合にはー」。
「咲いた場合には?」
「罰金だ!」
「それがいい!…でも、どうやってお金を取る?」
「それは、その草から…」
「草はお金なんか持っていないし、だいたい、お金がなくても花は咲くぞ」。
「では、許可なく咲いた場合には、手錠をはめよう!」
「草の手はどこにあるんだ?」
「どこでもいい、枝でも葉でも手錠をつければいいんだ」。
「でも、もし枝に手錠をつけても、花は咲くだろう」。
「じゃあ、許可なく咲いた場合は、自宅軟禁だ!」
「それは何だ?」
「家から出てはいけないと言うことだ」。
「草には家もないし、そもそも足がないからどこにも行かないぞ。そしてそこで花も咲くだろう」。
「じゃあ、許可なく咲いたら、強制労働だ!」
「それは何だ?」
「むりやり働かせるんだ」。
「道路建設とか、工場で機械を組み立てるとか?」
「それは草にはできないから、たとえば、まちをきれいにするとか」。
「花が咲けばきれいになるだろう」。
「それじゃあ花がいっぱい咲いた方がいいということじゃないか!」
「じゃあ…」。
「じゃあ?」
「ええっと」
「ええっと?」
「うーん。わからない」。
議会にいるぜんぶの議員はだまってしまった。議長もどうしていいのかわからなかった。長いひげは下がりっぱなしだった。
「議長!」。
黒いめがねをかけて黒い背広を着た議員が言った。「どうしたらいいでしょうか?」
「わしにきかれても…」。議長はちからなくつぶやいた。とその時、議長の秘書が議会に入ってきた。秘書は議長のそばにやってきて、ひそひそと耳打ちをして、すぐに去っていった。ほかの議員がきいた。
「なにかあったんですか、議長」。
「いや…」。
「もしかして、もう花が咲いたとか?」。
「ちがう…」。
「では?」
「市民たちが、みな仕事や勉強をしなくなっているらしい」。
「どうしてですか?」
「会社の中ではたらいていた人も、工場ではたらいていた人も、学校で授業を受けていたこどもたちも、みんな外で出ているらしい」。
「どうしてですか?」。
「まちじゅうをおおっている草に、花がいっせいに咲くところを見たいらしい」。
議員たちはいっそうしずかになった。みな、下を向いた。しかし議長だけはなにかを思いついたらしく、ひげが少しだけ上を向いていた。
「どうぞいくらでも切って、お持ち帰り下さい」。スピーカーで市の職員たちがさけんでいた。「つぼみのついている枝を切って花びんにさしてみてください。何日かしたら、きっと花が見られますよ」。
市民たちはこぞって枝を切った。そしてあいているペットボトルや缶を見つけて水を入れ、それに枝をさして持ってかえった。市の職員たちはさけぶ。「じぶんのおうちの分だけじゃなく、おつとめさきの会社や学校にも、持ってかえってください」。
「ちょっとおききしますけど」。とあるお金持ちのおばさんが、スピーカーでさけんでいる職員にきいた。「わたし、これで花束をつくりたいんですけど、100本くらい切ってもいいかしら?」
「どうぞどうぞ」。
別の若い女の人も職員にきいた。「友だちが結婚するんです。これでブーケをつくりたいんですけど、30本くらい切ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」。
若い男性の会社員もきいた。「彼女が誕生日なのでプレゼントしたいんだけど、50本くらい切ってもいい?」
「どうぞどうぞ」。
作業服を着たおじさんもきいた。「同僚が昇進するんだ。20本くらい、切ってもいいか?」
「どうぞどうぞ」。
つえをついたおじいさんもきいた。「ばあさんとの金婚式なんじゃ。50本きってもいいじゃろうか?」
「どうぞどうぞ」
子供もきいた。「ぼく、何にもないけど誰かにあげたいから、いっぱい切ってもいい?」
「どうぞどうぞ」。
ほかの人たちも口々にきく。「私も誰かにあげたいから、切ってもいいですか?」「おれも誰かにあげたいから切ってもいいか?」「あたしも誰かにあげたい」。「ぼくも誰かにあげたい」。「わたしも」。「わたしも」。
そしてみんな枝を切った。公園に生えているものや、信号にからまっているもの、道ばたにあるものはもちろん、それに会社のまどから身を乗り出して、ビルをおおっている枝を切る人もあった。そしてみんなそれを持ってかえるのにペットボトルや缶が必要だったで、ポイ捨てするひとがいなくなった。まちの中はずいぶんきれいになった。そして家や会社、学校では、みんな誰かにつぼみのついた枝をあげたり、もらったりして機嫌がよくなった。
もちろん、議長も機嫌がよかった。しかし彼の場合は、誰かに枝をもらったから機嫌がよいのではなかった。
「ふふふ。ずいぶんつぼみがなくなったぞ。この調子だ」。
議長はわらった。議長の部屋にも、切ったつぼみを花びんにさしてかざっている。それは、何日か前にまどから身を乗り出して、彼自身が切った枝だった。ほかにもたくさんまどの外の枝を切った。おかげでまどの外は以前のように見晴らしがよくなった。…はずだった。議長は、数日前に枝を切ったときより枝がふえているような気がした。
「まさか、そんなはずはない」。
議長は秘書を呼んだ。
「おい、まどを見たまえ」。
「はい、なんでしょうか」。
「何日かまえに、このまどの枝を切ったよな?」
「4日まえ、議長ご自身が、まどわくの形にきれいに四角く切りました」。
「そうだな。それにしてはおかしくないか?」
「は。きれいな四角ではなくなってますな」。
「やはり、そう見えるか」。
「はい。四角形の辺がギザギザでガタガタのきたない線になっております」。
「どうしてそうなったんだろうか」。
「議長、細い枝がいっぱいのびているからです」。
「え?」
「議長がお切りになった切り口の下から、それぞれ2本3本と、小枝がのびているのです」。
「それではまた枝がふえてしまうではないか?」
「はい。この調子では、あとまた数日でまどがおおわれてしまいそうですね」。
「それはいかん!」
また植物学者が100人、議長室に集められた。議長はまどの外を指さしながら、植物学者たちにきいた。
「何でだ?切ったはずなのに、なぜまたのびるんだ?」
植物学者たちはたがいの顔をみあわせた。誰も何も言わなかった。議長はどなった。
「この草が何科のなんという名前なのかくらい、みればわかるだろう?そしたらこの中に1人くらいは、その専門家がおるだろう!さあ、教えてくれ!」
植物学者たちはふたたびたがいの顔をみあわせた。議長は再びどなった。
「だれか1人、答えたまえ!」
しばらくの沈黙ののち、いちばん年をとった植物学者が言った。
「だれがお答えすべきか、相談しますので少々お時間を下さい」。
植物学者たちはぜんいん、会議室に入った。議長は1時間待ったが植物学者たちは会議室から出てこなかった。3時間待ったが、それでも出てこなかった。半日たち、植物学者たちは出てきたが、もう夜になったので帰ることにしたからだった。結論はあす出すからと議長に言ったので、議長は待つことにした。次の日、一日中植物学者たちは会議室にこもって相談を続けた。でもその日も結論は出なかった。夜になって帰り、また次の日にやってきて、会議室にこもって相談をした。議長が「もう待てない」と怒り出す直前、夕日が落ちるころに植物学者たちは会議室から出てきた。
「ずいぶん待ったぞ」。議長は言った。「3日間もかかったからには、そうとうむずかしいことなんだろう?」
「いえ、とてもかんたんです」。いちばん年をとった植物学者が答えた。「植物というのはなんでも、枝を切ったら、切り口の下で枝分かれをするものなのです」。
「それってどういうことだ?」
「人が転んでけがをしたらかさぶたができてキズがなおるように、植物というのは枝を切られると枝分かれして枝をふやすものなのです。植物学者なら、じょうしきです」。
「ここにいる100人みんな知っているということか?じゃあなんでそれを言うのに3日間も相談していたのだ?」
「議長が、だれか1人答えろとおっしゃったので、誰がお答えするべきか相談していたのです。その結論を出すのに3日間かかりました」。
議長はあきれて声が出なかった。いちばん年をとった植物学者は言った。「そして、お答えするのは私という結論になりました。だから私がこのようにお答えしております」。
議長はようやく声を出すまでに5分かかった。
「じゃああらためてきこう。まどの枝を切るとどうなる?」。
「その分、枝分かれして、枝がたくさんふえます。そしてふえた枝の先につぼみをつけます」。
「つまり枝を切らなかった方がー」。
「つぼみは少なかったのです。そしてまちじゅうですでに多くの市民がたくさんの枝を切りました。その分たくさん枝がのびてたくさんつぼみがついて」
「たくさん花が咲くということか?」
「その通りです、議長」。
じっさい、あれから3日たったので、すでに議長室のまどは再び枝におおわれていた。そして前よりもたくさんのつぼみが、赤や青や黄色に色づいていた。
雲1つない、さわやかに晴れた夏の朝だった。最初に咲いている花を見つけたのは、犬の散歩をしている子供だった。公園の中でオレンジ色のまるい花びらが、朝つゆをつけてかがやいていた。次に見つけたのはパン工場ではたらく青年だった。国道をわたる陸橋の上に、青い花が信号のように大きく咲いていた。次に見つけたのはおばあさんで、ゲートボールに行く途中に黄色い花がもう1つの太陽のようにまぶしく咲いていた。次は道ばたに桃色の花が咲き、そして電線にむらさき色の花がひらき、小学校の正門に白い花、家のえんとつにはだいだい色の花、ビルの裏には水色の花、ゴミステーションに赤い花、スーパーマーケットの屋根に青い花と、どんどん咲いていった。電信柱や工場、ビル、大通りをおおっていた草にも次々に花が咲いた。それだけではなかった。人々の家の中や学校、会社の中では、ペットボトルや花びんにさしてあった枝に、つぼみがひらいた。まちの外でも中でも、次々に花が咲きだした。そしてその日のお昼すぎには、空き地や道路は花をしきつめたじゅうたんのようになり、ビルが建ちならぶオフィス街はかべも屋根も花でおおわれて、消えない虹のようにかがやいていた。そしてまちでいちばん高いテレビ塔の上には、いちばん大きなアプリコット色の花が咲いた。
市議会には、黒い背広を着た議員たちが座っていた。さいごに誰かが発言してから、すでに1時間以上、誰も何も言わなかった。
「誰か、発言は?」
議長がきいた。黒い蝶ネクタイをして、黒い背広を着た議員が言った。
「いまさら、我々に何ができるのでしょうか」。
黒ハンカチを胸ポケットにさした議員が言った。
「そもそも何を決めなければいけないのでしょうか」。
別の議員が言った。
「それはあの草が…」。そして小さくつぶやいた。「あの草の何が悪いのだろうか?」
みんな口々につぶやいた。
「どうして我々はあの草を退治しなくてはならないのだろうか」。
「草があると誰がこまるんだろうか」。
「花が咲くことを禁止する理由はあるのだろうか」。
「そもそも禁止することは可能なのだろうか」。
「我々は何を禁止したいのだろうか」。
「禁止することで何を得たいのだろうか」。
「禁止する必要はないのではないだろうか」。
「ではここで我々が決めるべきことは何もないではないか」。
「何もすることがないなら帰ってもいいのではないだろうか」。
やがて議員たちは一人ずつ立ち上がって、議会から出た。そしてそのまま自分の家に帰っていった。
議場には議長だけがのこった。そこに秘書がやってきた。
「議長、報告です」。
「なんだ」。
「海外からたくさんの観光客がやってきました。ソウル、北京、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ベルリン、ハンブルグ、マドリード、ストックホルム、モスクワ、メキシコシティ、サンパウロ…」。
テレビ塔から発信される電波は、草と花を通じて、全世界のテレビに届いた。市内のすべての地面と建物が花に咲いている様子を、全世界の人々が見た。その風景をこの目で実際に見てみたいと、世界中のあらゆる場所から人々が訪れたのだった。
「ビューティフル!」
「トレビアン!」
「好呀!」
「ファンタスティッシ!」。
誰もがみな、その光景におどろいた。そしてすばらしい、と言った。とにかくまち全体が花だらけなのだ。朝はたくさんの小さな宝石がキラキラとかがやくようで、昼はたくさんの小さな風車が回っているようで、夕方はたくさんの小さなビー玉が転がっているようだった。夜は夜で星が地面にあってまたたいているようだった。そして次から次へと花は咲いていったから、ある日はピンク色の花がいっぱい咲いたり、ある日はオレンジ色の花が咲いたりして、毎日あきることがなかった。そしてまちの中をどれだけ歩いてもまるでゆうだいな自然の山や谷を歩いているように、緑と花と青空ばかりだった。道路も家も工場もビルも広場も全部花でおおわれているから、どこが道路で家で工場でビルなのかわからないくらいみごとだった。そしてどの建物も同じように花でおおわれているので、海外からやってきた人たちはどれが自分の泊まるホテルなのかわからず、関係のない会社のビルや、ときにはふつうの家にまちがえて入ってしまうことがあった。そんなとき、まちの人々はせっかく花を見にきてくれたのだからと、親切にただしいホテルに案内してあげたり、それでもわからないときには自分の家に泊めてあげたりした。そしてついでに自分の家や庭にある花を花束にしてプレゼントしたりした。海外からきた人たちは、花でいっぱいのまちにしたこのまちの人々はすばらしい、と市民を見つけるたびに握手をした。握手をされた人もうれしくなって、花でいっぱいのこのまちに住んでいることをうれしく思った。そしてそんなまちを、たくさんの花々の香りがつつんでいた。ともだちに「おはよう」とあいさつするときも、知らない人に「こんにちは」とあいさつするときも、かぞくに「おやすみ」というときも、いつでもおだやかな香りを感じた。街に住む人も、訪れた客も、みんな毎日がおだやかで楽しくうれしかった。
観光客たちは自分の家に帰ると、すばらしい花のまちの思い出を語り、それをきいた人たちが自分でもこのまちを見てみたいとやってきた。その人たちもまた家に戻ると思い出を語ったので、訪れる人はたえることがなかった。
世界中のテレビ局も取材に訪れた。そしてそのほとんどが議長にインタビューを申し込んだ。今日もアメリカのニューヨークのテレビ局のインタビューだった。
「最初に、あなたが草の芽に水やりを指示したのですか?」
「そうじゃないんです、あれは本当は別のことをしたかったんですが、するとスプリンクラーが作動して…」。
「つまり、結果的にはあなたが水やりのきっかけを作ったんですね?」
「いえ、まあ、そうですね」。
「ウシで肥料をつくったりしたのも?」
「結果的には…」。
「動物園の改装と草のための明るい照明をつけることまで考えたのもあなたですよね?」
「そのほうがむしろ草が…」。
「けんきょな方だ。さいごに。まちがこんなに花でいっぱいになることは予想していましたか?」
「そんなまさか」。
「予想できないすばらしさだったというわけですね」。
どこのテレビ局の取材もこの調子だった。議長は自分がむしろ草を枯らしたかったはずなのに、逆にほめられてばかりだった。そしてこんなインタビューを何回も何回も受けているうちに、ほめられるのがうれしくなってきた。どうじに、相手のいうことに全部「ちがいます」というのもめんどうに感じてきた。そして取材も10回をこえるころには、こんなふうに答えるようになった。
インタビュアー「最初に、あなたが草の芽に水やりを指示したのですか?」
議長「そうです。ああいうことをするとスプリンクラーが作動すると思って」。
インタビュアー「つまり、あなたが水やりのきっかけを作ったんですね?」
議長「いえ、まあ、そうですね」。
インタビュアー「ウシで肥料をつくったりしたのも?」
議長「そうですね」。
インタビュアー「動物園の改装と草のための明るい照明をつけることまで考えたのもあなたですよね?」
議長「そうです。そうすると草が…」。
インタビュアー「まちがこんなに花でいっぱいになることは予想していましたか?」
議長「そうなればとずっと思っていました」。
花がずっと咲き続けることはない。1か月ほどたったころ、少しずつしおれてきた。あざやかだった花びらはうすくなったり、茶色がかったりした。そして1まい1まい、ひらひらとまいおちていった。道路の花も空き地の花も建物をおおっていた花も、やがてすべての花びらが地面に落ちた。家の中で花びんにさしてかざっていた花は、すでにずいぶん前に枯れていた。海外からやってくる観光客の数も少しずつへっていった。
さらに1か月たったころには、花はなく、かわりに実がなっていた。赤く小さなまるい実が、花のあった場所にいっぱいなっていた。季節はすでに秋だった。まちの人たちは花がいっぱいあることにはすでに満足していたので、ちがう季節がやってきたことも楽しく思った。海外からやってきた人たちは、その赤い実をながめて花のあった季節をしのんだ。
議長は黒い自動車に乗って、議事堂に行くところだった。といっても、議員たちはあれっきりもどってこなかったので、いつも1人で議事を行っていた。つまり、自分で提案して、1人で議論して、多数決で決める。多数決といっても議長しかいないから、自分の意見だけで決めるのと同じだった。
「ではジャムお持ち帰り条例を可決します」。
がらんとした議事堂で、議長の声がひびく。なにしろ1人だけなので、審議に入ってから5分で可決された。以前なら何日もかかっていたのに。議長は少しさみしかった。でもジャムお持ち帰り条例があれば、草の実を煮つめて砂糖を入れてジャムをつくれる。そしてそれを海外からきた人たちが持って帰ることができる。ただただ、このきらいな草のいくぶんかでも、このまちからなくしたかっただけなのだ。議長はそう思っていた。でもそればかりではないような気もした。
じっさい、たくさんの観光客がジャムをおみやげに買っていった。草の実はいくらでもあったので、どれだけジャムをつくっても足りないくらいだった。もちろん市民たちも買った。買わずに、自分で実を収穫して、自分でジャムをつくる人もあった。実にはビタミンとかポリフェノールとか、栄養がいっぱいあったので、まちの人たちは健康になった。
しかし、いくらとってもとっても、実はなくならなかった。公園や道路わきなど、地面に近いところはかなり収穫したのだが、信号にからまっているものやビルの壁など高いところにあるものはまだたくさんのこっていたのだ。ある日曜日、議長が散歩をしていると、海外からの観光客が議長にきいた。
「のこっている実をおみやげに持ってかえりたい。オーケー?」
議長は言った。
「オーケーです」。
もう、どんどん持ってかえってもらいたかった。目の前からなくなってもらいたかったのだ。でも、はたしてそれだけだろうか?観光客はよろこんで、実をハンカチでつつんでポケットに入れた。その姿を見ていると、自分の好きなものをおすそ分けしているような嬉しさを感じた。まさかそんなはずはない、と議長は思ったが、自分でもよくわからなかった。
実を持ってかえってもかまわない、といううわさが広まったのだろうか、それから数日間は、まちのあちらこちらで、実をおみやげとしてポケットやカバンに入れ、持ってかえる観光客の姿を見かけた。ソウル、北京、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ベルリン、ハンブルグ、マドリード、ストックホルム、モスクワ、メキシコシティ、サンパウロなど、世界中からやってきた観光客がおみやげに実を持ってかえった。
すでに秋も深まった。冬が近いのか、気温の上がらない日がつづいた。そしてある朝、霜が降りた。議長が家のまどから外を見ると、なんとすべての草が枯れていた。
「そうか、なにも無理をしなくても草はいずれ枯れてしまう運命だったのだ」。議長は思った。そして議事堂に足を運んだ。すると、このところすっかり姿を見せなかった議員たちが集まってきていた。
「どうしたのだ、みんな。今まで顔を見せなかったのに?」。
みんな、以前にうつむきながら議事堂を去ったときとはうって変わり、なんだか晴れ晴れとしたかおをしていた。
黒いコーヒーカップを持って黒い背広を着た議員が言った。
「議長、勝利宣言を出しましょう」。
「なんだねそれは?」
「われわれのまちが、草に勝ったという宣言です」。
「勝った?」
議長は思わず聞き返した。黒いベルトをして黒い背広を着た議員が言った。
「勝ったではありませんか、草は枯れてしまったのです。それは我々が今までさまざまな対策を講じたからではありませんか!」。
「それはちがうと思う」。議長はしずかに言った。「我々はなにもしなかった。いや、できなかった。草は勝手に育って、勝手に枯れただけだ」。
議員たちは、議長が何を言ったのか、よくわからなかった。だから草に対する勝利宣言を出そう、という話をつづけた。10分ほどの議論の末、多数決をとることになった。そしてその結果もすぐに出た。賛成多数、反対は議長の1票だけだった。みんな議長の1票は無視をして、勝利宣言を出すことにした。
クリスマスになるまでに、枯れた草は市民の手でぜんぶかたづけられた。まちはすっかり以前の姿にもどり、信号にもビルにも空き地にも公園にも、草の姿はすっかりなくなった。人々は草のあったことなどすっかり忘れたかのように毎日じぶんの会社や学校に行き、そこで仕事や勉強をして家に帰った。地下鉄の中も以前と同じようなラッシュアワーがもどっていた。あいている席があればだれかが座った。
さらに季節がすぎて春になるころ、まちで市長選挙があった。議長は、議長をやめて市長に立候補をした。演説会で、もと議長はこんなことを話した。
「さくねん、私は市民のみなさま方に植物のあるくらしをご提供いたしました。じっさい、花があることで皆様の生活は楽しくなり、海外からも多数のお客様がお見えになりました。草花は我々の生活にとって、大きなうるおいをもたらします。ですから私は、人と草花とがともに生きていけるようなまちにしたいとー」。
おなじころ、ロンドンの地下鉄の中。
発車を待つ、早朝のほのぐらい車内で、小さな芽が出た。芽が出たのは座席の上だ。芽には、小さな小さな葉っぱが2まいついていた。
また同じころ、モスクワの地下鉄の中でも、小さな芽が出た。
そして北京やニューヨーク、ベルリンの地下鉄でも、小さな小さな芽が出た。
観光客が持ち帰った実が、ポケットからこぼれ落ちたのかもしれない。つづいてソウル、パリ、ハンブルグ、マドリード、ストックホルム、メキシコシティ、サンパウロでも…。世界中の地下鉄のなかで、小さな草の芽が顔を出した。
先ほど雰囲気を出そうと、物語の文章を、縦書き原稿用紙に流し込み印刷しました。なんと80ページにもなりました。休み中にコーヒーを飲みながら読ませていただきますね。
投稿情報: みどりのおじさん | 2010/05/01 05:20
素敵な話です。
さて、BGMは何にしようかな…
投稿情報: たか | 2010/05/01 12:25
>さて、BGMは何にしようかな…
たかさま。気に入っていただいて本当にうれしいです。
もし本当にBGMなんかついたら最高です。どなたか映像にしてくれる人、挿絵をつけてくれる人もいたらきっと音楽もさらにいきいきしてくるのではないでしょうか。私の画力ではイメージにできないので、なんとかストーリーだけ提供いたします。
投稿情報: shiro | 2010/05/01 20:04